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日禘(要法院)

にったい #2873

日禘(要法院)

にったい

(-一五〇五)
要法院と号す。
『政卿記』『大乗院寺社雑事記』によれば九条関白政忠の子、初め仁和寺相応院の門主であったが、同寺を退出、立本寺に入り、第八世を継いだ。
著名の学匠で、かの弘経寺日健・妙願寺日能・顕実寺日耀等と共に録内御書を輪講、『御書鈔』いわゆる『健鈔』を遺している。
日禘は強い折伏主義を主張し『健鈔』の『開目抄』を講じたが同章の文中の「菩提心」を釈するに、菩提心とは他宗でいうように、あるいは山籠りして仏道を求めるようなものではない、「法華宗の菩提心とは身命を亡ぼすとも退転の意地なく、諸宗折伏に心をかけて決定の成仏を期するが真実の法華宗菩提心」であると強烈な折伏弘通をすすめている。
日禘の叔父政基の子九条関白尚経は初めは大の日蓮宗嫌いの人であってその日記『後慈眼院殿記』には、しばしば本宗非難の文が見えるが、のちには極めて好意をいだくようになった。
文亀三年(一五〇三)のころ尚経は立本寺を勅願所に、日禘を僧正に任ぜられんことを奏請せんとして三条西実隆、勧修寺政顕に働きかけた。
これは本寺日了が文亀元年五月、薬師寺元長の館で浄土宗団誉玉翁と宗論を行って勝ち、このため前管領細川右京大夫政元は日了に帰依を深めて受法したが、その後文亀三年三月五日、政元は将軍義澄の同朋衆椿阿弥と共に日了の僧正任官を申請した。
これが三月九日に許可されたので、尚経も日禘を日了と同じく昇叙せしめられんと申請したのである。
『実隆公記』によれば実隆は先例がないから思案されるよう申し入れたが、尚経は勅願所も僧正も妙顕寺、妙蓮寺等に先例のあることであるからと重ねて奏請を申し入れた。
かくして一一月一三日、立本寺勅願寺とする願いは沙汰止みとなったが日禘は日了の任官と同日の三月九日付をもって僧正に任ぜられた。
尚経のこのような幹旋は、日禘が自身の従弟にあたり、尚経の末子が細川政元の養子となり澄之と名乗っていることなどから心境に変化をもたらせたのではないかと考えられる。
この年より二年後、日禘は永正二年一一月二二日入寂した。
世寿・法臈は未詳。
本寺歴譜には七世とも八世ともいう。
《宮崎英修「九条尚経の外護」『続・日蓮宗の人びと』》

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