妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日福(圓琳房)

にちふく #2872

日福(圓琳房)

にちふく

(一三七ー-一四五〇)
圓琳房。字は叡順。平賀本土寺八世。
下総庄大野郷に生れる。
本化別頭仏祖統紀』によれば、姓は大野氏で、曽谷法蓮の子に山城入道典宗があり、その子典久に六子があり、日福はその季子(末子)であるという。
平賀本土寺継図次第』によると父典久は、嘉慶二年(一三八八)一一月一五日、奥の南台の合戦にて手を負い、中の相馬の宿蓮寺にて死去し、子息六人の内、祐典・上国坊日䢔・大応坊日賢は中山へ、典宗・日福・蓮久は平賀へ入ったという。
日福は平賀日饒の門に入り出家し、やがて、大野の法蓮寺に入った。
日饒は、真諦の仏法を日慶に、住持を日福に付して入寂したため、日福は平賀の法灯を継承して、第六世となった。
日福は江戸に隠居所を築き、日慶を真諦の代官とし、江戸を法(宝)寿日圓(『本化別頭仏祖統紀』は「法(宝)寿房日圓」)の代官とした。
その後まもなく病を得、宝徳二年一二月二〇日、本土寺在職二三年、七三歳をもって入寂した。
平賀本土寺継図次第』には「取分け甚深の御志し大慈大悲の聖人にて御座ありけり」と記し、その徳を称えている。
遺弟法(宝)寿日圓は日福の隠居所を精舎となし、師を崇めて開山とした。
今の高輪承寺がこれで、門前に二本の榎が植えられたため、二本榎承寺と称したという。
その後承寺は、江戸における大村華の地として栄え今日にいたる。
ただし、承寺の寺伝によれば、承寺は正安元年(一二九九)二月、芝西久保の地に、一乗院日圓(元亨三年八月二日寂)によって開山され、承応二年(一六五三)今の地(二本榎)に移ったという。
寺の歴代譜に圓淋房日福・宝寿日圓の名は見られない。
久遠成院日親は『伝燈抄』に、平賀日饒の付弟、前の曽谷左衛門尉満繁の舎弟「大野の圓林房」と記述している。
本土寺は比企谷門流の系譜にある本寺で、当時、妙本寺と同様、祈願所となっていた。
日親はこれを謗供を受けるものであるとして難詰した。
日福は中山本妙寺との縁故関係もあり、その言を容れて祈願寺を改め巻数を停止したという。
日福の門からは、二八歳にして平賀九世を継承し、身延の行学院日朝と共に宗風を興隆した日意が出た。
《『日本仏人名辞典』「日福」の項》

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