日忠(禅那院)
日忠(禅那院)
にっちゅう
(-一六六〇)
字は通心、禅那院と号す。
甲州巨摩郡三子沢の人にて姓は佐野、幼くして身延第一七世日新に投じて出家し、飯高檀林に就学した。
日新天正二〇年(一五九二)八月寂するや身延第二二世日遠につき学び、飯高檀林の玄義の講主となる。是れ飯高玄講の始めである。
次いで身延西谷檀林に文句を講じ、後京都頂妙寺第六世、元和六年(一六二〇)中山法華経寺第二〇世の法燈を継ぐ、寛永元年(一六二四)飯高檀林に請せられて第九世の化主となる。
同六年真間山弘法寺の席を補す。
寛永三年日賢等不受不施の義を唱え同七年身延日暹之を訴え問答に及び、池上日樹等と共に配流される事件があり、師である日賢と親交厚き故嫌疑を受け、爾来幽居して他の招請に応ぜず、万治三年一〇月一六日をもって寂した。
滅後二〇年徳川光圀水戸稲本に靖定山久昌寺を母久昌院追福のために建立し、日忠の遺烈をたっとび開山とした。
弟子に妙顕寺第一四世日豊等がある。
著書に『西谷名目解』六巻、『帯現記』一巻等を著す。
また寛永一二年天台に改宗して日迢を真迢と改め、同一四年『破邪顕正記』五巻を著し、宗門と論戦した真迢も日忠の会下にあった人である。
この日忠の活躍した江戸時代前期(一六〇一-一七〇〇)幕府は仏教擁護のため切支丹禁止の方針を立て寛永一三年寺院に朱印または安堵状を与え、棚経の慣例が作られ、また他方では僧侶の肉食・妻帯・畜髪を禁じ、その監督を厳重にして世人の重鎮たらしめたので、寺院並びに僧侶は高い社会的地位を保持することとなり、仏教界に多くのすぐれた人材を集めていた。
宗門においても寂照日乾・心性日遠・深草元政等が輩出していた。
日忠もその一人にて「倹約を守り、深く信施を重んじ、麻衣・粗飯を以って躬に飽ぜず、余り有ければ、則ち、或は困学を賑わい、或は病者を救う。
智行蚤を調べ香を恵らわし一会苦しく辯ると之を称す」(『本化別頭仏祖統紀』)と称し、智識と徳行を兼ねそなえた人と頌されていた。
また日遠は那公(禅那院)あるいは忠師と称して礼を盡したという。
《『本化別頭仏祖統紀』二〇巻、影山堯雄『日蓮教団史概説』、宮崎英修『不受不施派の源流と展開』、『日本仏教人名辞典』「日忠」の項》