妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日学(成就院)

にちがく #2559

日学(成就院)

にちがく

(-一四五九)
成就院と号す。
身延山久遠寺第九世。甲州波木井の生まれで、身延第八世日億、比企池上両山第六世日行と兄弟で、その末弟である。
二兄と共に身延第七世日叡の門に学ぶ。ともに学誉徳望たかく、世に叡門の三猊と称されたと伝えられる。
日億入寂のあとをうけて、応永二九年(一四二二)、身延第九世を継ぐ。
在位三八年。
長禄三年一二月七日没。
寿不詳。
一説に七四歳という。
著に『本迹抄』一巻、『祖書(開目・報恩・撰の三抄)見聞』一巻などがある。
在位中、身延中山の和睦をはかった。
身延中山の不和は、身延七世日叡が比企池上両山を兼職したことにたいし、中山第四世日尊が、日向門流の日叡が日朗門流の両山を兼ねるは法流を乱すもの、と批難したことに端を発し、明徳元年(一三九〇)、中山で七条法服を着用したことをめぐって、その是非を論争するにいたってその極みに達し、以来断絶となった。
中山は第七世日有のときであったが、日有も身延・中山の間に上古のごとき親交の絶えたことを嘆く日学に同意して和談に努め、漸く身延・中山は和睦するにいたった。
しかし、この和議も中山が法服を着用したことで再び破れたようで、その後の和議の成立は、身延一一世日朝、中山八世日院の代までまたねばならなかった。
門下に大乗坊日讃・玉泉坊日伝(初め日能という)・一乗日出などの逸材があった。
は京都に布教して学養寺を興し、師を開山にあおぎ、自ら第二世に列して、関西身延門流諸末寺の本寺を開き、身延の京都進出の拠点とし、日伝は将軍足利義教を諫暁し、日出は伊豆・鎌倉に伝道して両地に本覚寺を創し、永享問答を行って足利持氏を諫めるなど、そのころ沈滞していた身延門流の意気を世に示すのみならず、一宗の面目をほどこした。
《『日本仏人名辞典』「日学」の項》

← 事典トップ