山家山外
山家山外
さんげさんがい
四明知礼(九六〇-一〇二八)の系譜である、いわゆる天台正統派を山家といい、これに対し、源清(-九九六-)、宗昱等の一派を山外という。
いわゆる異流派の意味で、この一派は山外と呼ばれたが、勿論この呼称は正統派と自負する四明等の一派から名づけられたものと考えられる。
中国仏教の発展を著しく阻害したものの一つに破仏がある。
会昌五年(八四五)の破仏は著名であるが、その後仁寿三年(八五三)に入唐した円珍は、福州・天台山・長安等を巡って、一〇〇〇巻に及ぶ典籍を蒐集して、天安二年(八五八)に帰朝しているので、このときの破仏では全く仏教典籍が散失してしまったのではない。
けれども、世宗の顕徳二年(九五五)の破仏では相当の典籍が散失してしまったようで、この破仏の後、太宗の建隆元年(九六〇)に、呉越王弘俶が高麗・日本に仏教の論疏を求め(仏祖統紀二三・四三等)、翌二年には高麗の諦観が経疏をもって螺渓義寂のもとに至り、また更に高麗の義天は宋元豊八年(一〇八五)、経疏をたずさえて入宋している。
諦観は天台、義天は華厳章疏をたずさえた。
天台学系における山家・山外派の出現も直接的にはこの破仏に因由する。
即ちこのようにして破仏の後、多くの典籍が高麗・日本等に求められたが、その資料は十分でなく、中国に再び仏教研究がめばえる過程において、一種の混乱が生じたことは当然と考えられ、天台智顗の伝統教学が如何に解釈されるべきかにおいて、そこに理解の異なりが起ったのも当然のことといえる。
山家・山外の論争を中心とする、所謂趙宋天台は、そこに多くの問題を提示したが、まず別理随縁の問題、理事両重総別説の問題、両重能所観の問題等がある。
いまこれらの一々についての説明は省略するが、このような問題について、山家・山外と別れて論争を繰返すに至る原因は、湛然が理解した智顗教学の影響によるものといえる。
湛然が仏教界において活躍を始める前に、智顗の当時には未だ完成していなかった華厳教学が、法蔵によって完成せしめられた。
この影響で湛然は、始祖である智顗の文疏を註釈するのに、多分に華厳的な思考をとり入れた。
いわゆる山外派と呼ばれる源清の教学は、その教理論が多分に華厳的であるといわれる。
そして、それ故に知礼などから異端視されたが、その考え方は、湛然の思索を忠実に取り入れたものといえるが、湛然の思考を更に率直に述べたために、知礼からいたく攻撃されることになったのである。
知礼の教学はその意味で、多分に智顗の祖意を祖述するものと思われ勝ちであるが、天台の伝統を守る正統派を意識する以上、湛然の立場を無視することは出来ず、それなりに知礼の教学は『十不二門指要鈔』における如く、極めて複雑になり、難解になっている。
従来、山家・山外の始まりは、宋咸平年中(九九八-一〇〇三)、天台智顗の『金光明玄義』に広略二本あって、広本には観心釈の一章、及び帝王の二字の解釈があり、略本にはこれを欠いた。
この二本の真偽について、山外の晤恩は広本をもって後人の付加となし『発揮記』を作成して略本を解釈した。
源清はこの弟子に当るが『二十条』を作って師の説を助成し、広本を破棄した。
これに対して知礼は『扶宗釈難』を著して『発揮』及び『二十条』を破した。
更に慶昭・智円は『辯化』を撰して略本を正しいものとなしたので、更に知礼は『問疑書』を作ってこれを反詰し、慶昭はまた『答疑書』を著し、知礼は、更に『詰難書』を作成した。
慶昭はここに『五義書』を述作し、更に知礼はこれに対し『問疑書』を作り、更に『覆問書』を述べ、慶昭はここに『釈難書』を作った。
この論難はおよそ五回反復されたといわれるが、この後においても、この論難は続けられている。
即ち景徳三年(一〇〇六)、知礼は『十義書』を作成し、翌年慶昭はこれに『答十義書』を作り、知礼は更に『観心二百問』を著した。
これに対してその後、智円は『光明玄表微記』を作り、知礼は更に『光明玄拾遺記』を作ってこれを論破した。
この間に費された期間は凡そ四〇年といわれている。
知礼はかくのごとくに『金光明玄義』の問題につき論難をする傍ら、また景徳元年に『十不二門指要鈔』を著し、ここに、いわゆる趙宋天台論争の主要な項目であるところの別理随縁説を主張し、また更に理事両重総別等を主張して、山外派の諸師に対した。
かくて山家・山外に別かれ、種々の項目について種々の論争が行われたが、その結局は、山外派が湛然教学に表れた華厳的な教理論を引いて、多分に華厳哲学的に智顗の教学を解釈したことに対する反発であったといえる。
例えば湛然が初めて天台教学に取入れた真如縁起説を土台にして、源清は更にここから真心観を主張したが、この考え方は知礼にとって受入れがたいことであった。
即ち妄心観を主張しているのが始祖たる智顗の学説であるとする知礼は、何としても真心観を主張する源清らの山外派を対破せねばならず、前述の如き『金光明玄義』の広略二本の問題に、この山家・山外論争の発端があったとしても、事実はより教学的な、教理面における対論があったことを知らねばならないと思われる。