妄心
妄心
もうしん
「もうじん」とも。
無明(迷い)の心。
偽りの心。
誤まれる分別心。
妄とは真実でないこと、まよい、みだれているさまをいう。
そこで仏教では妄心といって凡夫の煩悩心をさすのである。
妄心に対する語が真心で真実清浄な無礙の仏心を表す。
妄心が問題となったのは天台法華宗であった。
即ち、趙宋天台における山家・山外の観心論争の中心課題がここにあった。
山家・山外の観心論争とは、天台教学の根本である「観心」「観」の対象の「心」を妄心(煩悩心)とみるか、真心(清浄心)とみるかの論争であった。
源清(-九九七)らの華厳思想の影響を受けた唯心論的発想の真心説に対して、天台の観法の対象は妄心であると主張し、理事両重総別説をなして自ら正統山家を名のり、他を異端山外と攻撃したのが四明知礼(九六〇-一〇二八)であった。
この趙宋天台の観心論争は、近世日蓮教学でも問題となり、妄心か真心かと激しい論争を展開した。
近世初頭、心性日遠とその門下が四明の妄心説を批判したことから、関東の不受論者が、四明妄心説を正統として反論した一連の論争である。
ただし日蓮聖人の立場からすれば天台教学のこの観心論争は理観の範疇に属し、聖人の事観、事の一念三千の一念は題目受持の一念という信心であり、妄心か真心かの論争とは次元が異なっている。
《『遺文辞典』教学篇「妄心(もうしん)」の項》