妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

具円(迹本院)

ぐえん #773

具円(迹本院)

ぐえん

迹本院。 京都妙顕寺具覚月明の弟子。
月明は応永一〇年(一四〇三)一二月一二日、日霽の付嘱状を受け、同一二年一一月四日、二〇歳で妙本寺(妙顕寺)の法灯を継承し、その後数年にして最高位に任ぜられた。
月明の任官は比叡山を刺激し、妙本寺は比叡山宗徒によって破却された。
月明は丹波知見(南丹市美山町知見)に逃れ、この地にあって妙本寺の再興をはかって本応寺を建立した。 ところが月明は隠棲を決意し、この本応寺に俗縁の弟である弟子の具円を晋ませた。
月明は「今法器に足らずとも雖も纔(わずか)に両輩の弟子在り、所謂迹本院具円法師、久我前右幕下の子息等是なり、彼小生は門聊か籠居の上全分幼少なり、先具円を以て付弟となす」と二代の後胤を定めた上、門徒に対し一味同心して再興に努力するよう申し送ったのである。 ところが、これに不満をもった光源および与同の人々は具円を讒誣したため、具円は応永二五年四月、起請文を立てて、これらの人々を追放した。
一方本応寺の宿臈妙光房を始めとする具円支持の人々は起請文を奉り、一六〇名の連署を集めた。 ところが、このうち二五名は花押をひかえていた。
具円不信の人々は三六名の連署を集めたが、このうち五名が無判であった。
不信の衆徒本仏寺をたてここによって本応寺と対立したため、月明は具円に順ぜぬものは一闡提謗法の者であると申し送った。
しかし不信の衆徒はこれに従わないため月明は事をおさめんとして上洛したが、不信の衆徒は直ちに月明に改悔をしたので月明はこれを容れた。
しかるに本応寺ではたやすく改悔をゆるした月明の処置に不信を表明し月明の命令を用いようとしない。
致し方なく月明は本仏寺に入りこれを妙本寺と改称し、次いで本応寺に入りこれを妙本寺と改称し、次いで本応寺の返還を迫った。
この状況のもとで具円は衆徒の援護をたのみ本応寺に居すわったが応永二八年七月一〇日、具円は師命に背いたことにより、月明より義絶を申渡されたのである。
具円は、本応寺にあることを数年、応永三四年三月、帰伏状を捧げた。
しかし本応寺衆徒は退出をこばみ、寺号を立本寺と改め、公卿の裏辻家の一族、玄式日実を住持に迎え山門末寺と号し庇護を頼んだ。
これによって、妙本寺は立本寺を手放すこととなったが、数年の後、立本寺は再び日蓮宗四条門流復帰した。
立正大学日蓮教学研究所編『日蓮団全史』上》

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