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久遠元初の自受用報身

くおんがんじょのじじゅゆうほうじん #346

久遠元初の自受用報身

くおんがんじょのじじゅゆうほうじん

日興門流の秘伝書といわれる『本因妙抄』(詳しくは『法華本門宗血脈相承事』)の本迹二四番の勝劣の中に見られる語で、過去久遠の初めの妙智を主体とする報身をいう。
本因妙抄』の第二四番の勝劣に「彼は応仏昇進の自受用報身之一念三千一心三観、此は久遠元初の自受用報身無作本有の妙法を直に唱ふ」(『宗全』二巻七頁)とあって、彼此の勝劣を述べている。
興門では五老僧と日興との対立があって、五老僧は台に与同し、日興のみ日蓮聖人えを伝承したと主張している。 これに従えば「彼」とは五老僧、「此」とは日興の立場を指すのであろうか。
しかしこの二四の勝劣は「彼」とは天台宗、「此」とは当家で、台当勝劣に陥っているのである。
応身昇進の自受用報身は寿量品の三身如来ではなく、また一心三観は天台宗の観法であって、五老僧がこの唱題を捨てて一心三観を主張したとは考えられない。 つまり「彼」とは天台宗といえる。
これに対し興門の立てる「久遠元初の自受用報身」というのは本有の妙法だというのである。
本門寿量品では釈尊の久遠成道を時間的な超越を示すために五百麈点劫の譬喩が説かれ、日蓮聖人はこの麈点を「無始」という概念で把握された。
しかし「久遠元初」という場合、久遠に間的な意味が加わり、そのの根本あるいは一番最初を考えるようになった。
つまり麈点を有限的な間概念で把握するため、それ以前の根本、あるいは一番の根本に遡ろうという欲求からを求め「」という概念から脱却できなかったのである。 その初めを久遠元初という。
そして身に約すれば、三身は法身・報身・応身にわたるが、我本行菩薩道の本因を修し、智慧を得た仏身を正意とすることから自受用報身という。
このの功徳聚である本有の妙法を唱えることを正行とするのが興門の主張する「久遠元初の自受用報身無作本有の妙法を直に唱ふ」ということであろう。

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