日鎮(寿量院)
日鎮(寿量院)
にっちん
(一四五四-一五三三) 京都西陣本隆寺二世で、寿量院と号す。
享徳三年京都生まれ。
顕本日唱、本栖日映、慶隆日諦、証誠日雄などと共に不軽日真の傑出した門下である。
長享二年(一四八八)の同宿講の時、一致勝劣の論が起り、日真の勝劣論に対して、泉乗日儼、行学日賢等は一致を主張し、その決裁を日具に仰いだ。
時に日具は双方を調定せんとつとめたが、日真はあくまで勝劣義を主張して止まず妙顕寺を退出し、六角西洞院に本隆寺を創建して妙顕寺と訣別するにいたり日鎮は日真と行動を共にした。
ここに「寛正の盟約」は名実ともに崩壊した。
第一条の「高祖の所立は本迹一体の事」は空文と化し、第六条の「真俗の輩初発心の各寺に向背すべからず、然あらば互に余寺として許容すべからざる事」は顧みられなくなった。
日真は妙顕寺を退出し本隆寺を創するに当っては、先に妙顕寺より独立した隆門の援助を得た。
そのため初めは真・隆両門同一法水の盟約を結び、隆門では日隆の『四帖抄』等を贈り、日真また日隆の教学に私淑した。
また妙蓮寺の日忠とは個人的にも親交があったので、妙蓮・本能・本隆・妙満寺等は互いに相融和していた。
しかるに大永二年(一五二二)越前本興寺宝塔供養会のとき本能寺日増、妙蓮寺日忠、妙満寺日崇と共に会堂し、各々法座に登って説法した。
このとき「不須汝等護持此経」の文について、此経を日忠は本門の題目、日真は迹門の題目と異説したことに端を発し、隆門教学の八品正意を否定して寿量正意をたて、本因下種論に対し本果下種論を主張し全く相反するにいたった。
このとき日真の強硬論に対して日鎮は妥協論者であったと伝えられている。
録内御書目録の最も古い形態は身延一一世の行学日朝の「朝師本目録」であるが、日朝入寂の明応九年(一五〇〇)ごろ四六歳であった日鎮の書写した録内二五冊が本隆寺に現存し、その順序はおおむね朝師本と同じである。
天文二年一〇月二八日遷化。