日華(寂日房・二十家阿闍梨)
日華(寂日房・二十家阿闍梨)
にっけ
(一二五一-一三三四)
寂日房、二十家阿闍梨、日興本六人の一人。
建長四年一一月一五日、甲州鰍沢二十五家邑(山梨県南巨摩郡富士川町)に生まれる。
俗姓は秋山氏にして、父祖は代々鰍沢(現・富士川町)を領地して、邑主秋山与一左兵衛源信綱の第二子である。
建治二年(一二七六)春、鰍沢に日興弘通の際、秋山一門受法し、その後一子を進めて弟子入りを請い、日興はこれを門下に加え寂日房と号した。
日興は寂日房を具して身延山に帰り、それより寂日房は日蓮聖人に常随給仕をしている。
日興が日蓮聖人滅後身延山を離山すると共に身延を離れ富士に下る。
日興に仕え布教伝道に努力をする中、正和年間(一三一四前後)に秋山信綱の子秀忠は土佐に移り、幡田に法華堂を建て、日華の入寺を請うたが、その後に讃岐に移り、田村に法華堂を建てている。讃岐の本門寺である。当寺は日仙が法灯を継承するに至っている。
正中元年(一三二四)三月、南条時光の室妙蓮尼が日華に帰依し、所領の内堀の内一帯を寄進し、一宇を創建している。
また新寺建立は、鰍沢蓮華寺、小室妙法寺、経王寺等あり、建武元年(一三三四)八月一六日、日興示寂の翌年に遷化。世寿八三歳である。遺弟日相は南条時光の子息にして、日華の寺席を継承した。
日華・日仙は富士方の、上野・甲斐系の人で、南条氏の子息が弟子入りしていることにより理解されるが、仙代問答の日代は河合方にして、大井橘六の縁者であり、大井庄司、日華との血縁はないと理解しておくべきであろう。
『本尊分与帳』には「甲斐の国蓮華寺の住僧・寂日房は日興第一の弟子なり、一、甲斐の国大井入道の孫・肥前房は寂日房の弟子なり、一、甲斐の国大井庄司入道は寂日房の弟子なり、一、甲斐の国の大井庄司入道の後家尼は寂日房の弟子なり」とあり、日興の父大井橘六と、大井庄司入道とは別人であることが現在知られているが、同人であった場合は日代の重須離山と河合の由比・大内氏の激怒も変っていたであろう。
また別して小湊の寂日房日家は中老僧にして、寂日房日華とは別人である。
《『国史大辞典』一一巻「日華」の項》