日澄(円明院)
日澄(円明院)
にっちょう
(一四四一-一五一〇)
字は啓運、円明院(円妙院)と号し、一如坊(一如房)と称する。
啓運日澄・円明日澄とも通称される。
京都本国寺第一〇世成就院日円の門に入って出家し、多くの著述をなして宗義を興隆した一致派の学匠で、身延山第一一世行学院日朝(一四二二-一五〇〇)とならび称される。
出自不明。
文明一一年(一四七九)頃、京都より伊豆にいたり、三崎に円明寺を開創し、鎌倉妙法寺に隠居した(『本化別頭仏祖統紀』によると、日澄はこの頃鎌倉啓運寺をも創建したという)。
妙法寺において学室を設け、文明一五年頃より延徳四年(一四九二)頃にわたって法華経を講じ、文亀二年(一五〇二)頃これをまとめて『法華啓運鈔』五五巻を著した。
延徳四年には品川妙国寺の慶陽院日悦(日什門流)の『本迹勝劣抄』に対して『本迹決疑抄』二巻を著し、明応三年(一四九四)には比叡山の学僧円信の『破日蓮義』に対して『日出台隠記』二巻を著し反論した。
このほか『助顕唱導文集』七巻、『本迹決要抄』二巻、『法界一念抄』、『嘉会宗義抄』二巻、『法華神道秘決』四巻、『日蓮聖人註画讃』五巻等の著述があり、とくに『日蓮聖人註画讃』は大いに普及し、後世の日蓮聖人伝に多大な影響を与えた。
永正三年(一五〇六)、江川美盛の招きを受けて伊豆韮山におもむいて本立寺を創し、同七年二月九日、七〇歳にして入寂した。
日澄の教学は教相主義の傾向を示し、当時の教学界を風摩していた真如院日住・行学院日朝等の理顕本を廃して事顕本を主張した。
《執行海秀著『日蓮宗教学史』、宮崎英修『日蓮宗徒群像』、『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』「日澄」の項》