日実(龍華院・妙本寺)
日実(龍華院・妙本寺)
にちじつ
(-一四五八)
字は玄式、龍華院と号す。
応永二〇年(一四一三)妙本寺月明はわずか二〇歳で僧正に任ぜられたが、この破格の昇進が山門の僧徒を刺激し、六月二五日妙本寺は山徒のために破却され月明は丹波知見に難をさけた。
間もなく京都の門徒たちは妙本寺を復興せんとし、柳酒屋妙女、小袖屋経意等が中心になって寺を建て本応寺と名づけ月明を迎えようとした。
そこで月明は弟子具円を遣わし門徒の確保と寺門復興にあたらせたが、一部の者が具円を寺主とすることに反対し、寺を出て別に一宇を建立、本仏寺と号した。
月明は両者の対立をやわらげ和融させようと上洛したところ本仏寺の衆徒は直ちに月明を迎え改悔したのでこれを許したが、本応寺側は一味和合を破って別立した本仏寺をたやすく許されることは心得がたいと申立て月明のもとへ行こうとはしなかった。
そこで月明は本仏寺に入り、これを妙本寺と改め本応寺衆徒の改悔をまったが一向にそのことがないのみならず、かえって非儀を重ねたので月明は遂に本応寺は妙本寺再興のために建てたものであるから直ちに返還すべきを命じ、具円は師命に背くの条曲事であると破門した。
応永二八年のことである。
これより数年後、具円は改悔帰伏し本応寺を妙本寺に帰さんとしたが衆徒はきき入れず、これを立本寺と改めて独立し、自力にては維持困難であると山門をたのんで末寺と号し、裏辻家(正親町)の一族の子弟をむかえて貫主とした。
玄式日実がこれである。
日実は長禄二年(一四五八)入寂まで住持し、そのあと九条政忠の子要法院日禘がついでいる。
『本化別頭仏祖統紀』は日実の在位六〇余年というが、かりに応永三〇年頃具円のあとをうけたとしても三五、六年であるから思いちがいであろう。
また山門の末寺となった期間もわずかな間のようで、日実寂後七年寛正六年(一四六五)に山門が京都日蓮宗を事書をもって難じたとき、立本寺長老日胤は真如日住と共に山門の難詰に対処したことをその自記『諫暁始末記』にのせていることからも知られる。
恐らく日実晩年のころは山門より離れていたのであろう。
《立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、立本寺日胤『諫暁始末記』『宗全』一九巻、『日本仏教人名辞典』「日実」の項、『国史大辞典』一一巻「日実」の項》