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日大(本覚法印)

にちだい #2538

日大(本覚法印)

にちだい

(一三〇九-六九)
上行院日尊の弟子。延慶二年の生まれ。
俗姓畠山氏。本覚と号す。
元年(一三四〇)師日尊より所立宗義を伝えられ筆録して『尊師実録』を著した。
日大は自身建立した冷泉西洞院の法華堂や木辻法華堂(上行院)また貞治二年(一三六三)には一条猪熊の上行院を本拠として活躍した勝れた学匠である。
同年、五五歳の山門無双の学僧といわれる山門惣探題直兼と台当の立義について問答し、その問答記を残している。
また師日尊の意志をついで山陰道に線を伸ばし、出雲(島根県)ではいくつかの寺院を開創した。
真言宗徒を破折し、寺院転宗させたものを含めると十数ヵ寺に及ぶ。
このように山陰道に門の勢威を伸ばしたので、後人は日大を山方開山と称した。
百六箇相承』の第二の奥書の付属状に「馬木、平田、東郷、朝山等在々所々に上行院之を建立せしむ」とある。
本状が後人の仮托謀書であるにせよ、偽作された当の所伝を記したものであり、これによって、日大の建立した法華堂は、木辻法華堂を上行院と号した例を考えても、初めはすべて上行院と称したものと推測される。
一条猪熊上行院は日大の弟子日源によって本実成寺と改められ、更に二条堀河に移って住本寺と称している。
これはおそらく六角上行院との紛らわしさを避けるために別名を付けたものであろう。
各地の上行院もこのためにそれぞれの寺名を付けるようになったものと考えられる。
日尊の六角上行院は日・日円・日従と次第して日大には譲られなかったが、日大はこれを不満としたらしい。
自分の建立した法華堂を初めにすべて上行院と号したのも、自らを上行院の正嫡であると任じたからではないだろうか。
『伝燈抄』は日尹()の時、住本寺開山日大が寿量品の心懐恋慕、咸皆懐恋慕の懐の読法について「エ」「クワイ」の争いをして上行院と門徒を引き分け、日尊門下は二流になったと伝え、上行院を「エ」門徒、住本寺を「クワイ」門徒と呼んだという。
いずれにせよ、日大は六角上行院の後継者に対し好意を抱かず門を分かったものであろう。
応安二年二月一二日入寂。
享年六一歳。
《『日蓮団全史』上、『宗全』第二巻、『日蓮宗年表』、『日興門流上代事典』「日大(本覚・畠山阿闍梨)」の項

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