日印(摩訶一阿闍梨)
日印(摩訶一阿闍梨)
にちいん
(一二六四-一三二八)
文永元年生まれ。越後の人。
八歳のとき同国石瀬の天台宗青竜寺の門に入り、長じて南都・北嶺に遊学した。
その帰途、永仁二年(一二九四)鎌倉で日朗の『摩訶止観』第一を講ずるのを聞き、改宗入門し目印と名乗ったといい、摩訶一阿闍梨と称するのはこの縁という。
のちに越後に伝道して、山吉定明の外護により蒲原郡薄村に青蓮華寺を創め、のちに本成寺と改めたのを始めとして、各地を巡教し正和五年(一三一六)天台宗僧浄信を帰伏させて日順の名を授け、日順は婦負郡井田に一寺を建てた。黒瀬本法寺がこれで、のち日印は同寺を北陸の総末頭としたという。
また同年会津に妙蓮寺を建て、更に石動山の真言僧を改衣させて日暹と名づけた。
のち日暹は氷見蓮成寺の基を開く。このほか、角田に妙光寺などを開創した。
日朗滅後は鎌倉に本勝寺を開き、ここに止住した。
そして元亨元年(一三二一)日蓮聖人の命日一〇月一三日の逮夜の仏事を比企谷妙本寺の仏事とは別に本勝寺で執行し、これを機に日朗門家から日印は分立するに至る。
この逮夜の仏事の際、日印は上殿すなわち日像・日輪の母(妙朗尼)に頼みこんで、日朗所伝の聖教を借り受けて法会をすましたが、その後も返却されなかったことが伝えられる。
これはとりもなおさず、日印が別立の意志を表明したもので、この日印の行動に九鳳の一人妙音房日行が追随した。
この別立に至る要因としては、目印は生国越後に本成寺を中心として既に広範な教線を布きひろげ自ら恃むところあったにもかかわらず、法勲・年齢共に低い日輪(時に日印五八歳、日輪五〇歳)の下位につくことを不満としたからではなかろうか。
享徳(一四五二)の頃より文明(一四八〇)の頃にかけて、当時の所伝を記した平賀門家の妙泉院日晴の『当門家継図次第』『平賀本土寺継図次第』には、日印が比企谷の主職とする意志があったとしていることはこれを物語ろう。
さて、日印は聖教類を手に入れるや遂に妙本寺と袂を分かち、間もなく本勝寺を弟子日静に譲って越後本成寺に帰った。
嘉暦二年(一三二七)置文を制して本成寺を門家の棟梁と定め、日静に付し、会津妙蓮寺に退隠、一二月二〇日、六五歳をもって入滅。
《立正大学日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、『日蓮辞典』『日本仏教人名辞典』「日印」の項、宮崎英修『日蓮宗徒群像』》