日仙(讃岐阿闍梨)
日仙(讃岐阿闍梨)
にっせん
(一二六三-一三五五)
上蓮坊、摂津房、讃岐阿闍梨と称された。
日仙は白蓮日興の弟子にして、本六人の一人であり、秋山信綱の一族、寂日房日華の俗縁に当る。
正和年間(一三一四前後)信綱の子泰忠は土佐に移り、幡田に法華堂を建て、日華の入寺を請うたが、その後に讃岐に移り、田村に法華堂を創建。
日華は中途富士に帰り、日興遷化後、南条時光の旧宅を改め妙蓮寺を創建し、建武元年(一三三四)八月、八八歳で遷化し、その後日仙は田村法華堂に住持した。
高瀬大坊といわれ、初め本門寺と号し、のち法華寺と改めた。讃岐の本門寺である。
日仙の寂年は異説があるが、堀日亨説は文和三年(一三五四)一月七日としている。
世寿九三歳。
日仙は建武元年(一三三四)八月に、日華が遷化する前、同年一月七日、大石寺上蓮房において、重須日代との間に、方便品読不読の問答をしている。
世に仙代問答というが、日仙は上野甲斐血族、日代は由比西山血族の俗縁者である。
くしくもその後当事者は、日仙は富士上野より讃岐田村法華堂に移り、日代は重須より離山して西山に移り、西山本門寺を新建立するに至り、仙代問答の記録を残している佐渡日満も重須を退出する結果を招いている。
この仙代問答は日興滅後に、本迹問題等を鮮明にして置かなければならなかった事より生じていると考えられ、ことに鎌倉方や天目等の教学に対して生じた問答であろう。
日仙は迹門無得道の故に方便品不読の立場をとり、日代は与・奪・破の三釈があり、与釈の立場で一応得益を許すも、真の得益は内証の寿量品にあり、高(日蓮聖人)開(日興)両祖の如く、方便品を読むべき立場をとっている。
仙代問答については日満・日睿・日尊の記録があるが、所伝は異っている。
しかしながら日仙は天目の阿流、日代は本迹迷乱鎌倉与同という両師は不本意な誤解を受けたが、与奪二門のうち破釈の立場を新たに強調した面が後の富士教学の骨子となるきっかけを作った問答といえよう。
『本尊分与帳』に日興第一の弟子とある。
《『日興門流上代事典』「日仙(摂津公・百貫房・上蓮阿闍梨・讃岐阿闍梨)」の項》