教育勅語と日蓮宗の対応
教育勅語と日蓮宗の対応
きょういくちょくごとにちれんしゅうのたいおう
明治二三年(一八九〇)に教育勅語が発布され、明治絶対主義天皇制の精神的支柱が確立された。
この体制に機敏な反応を示したのは田中智学である。
彼は明治三七年八月に「勅語玄義」を講じたが、これがのちに『勅教玄義』と題して発刊されている。
その前文で「全体教育勅語を世界第一の貴重なる経典だということを知らないものが多いから、日本国民の発達が遅いのである」と述べ「法華経主義の大忠孝観が、論議説明に先だって、ありあり実際の事実となって、先天的国是として厳存しているのが、此日本国である」とされている。
即ち教育勅語を日蓮主義で色揚げして、その深理性を説くわけである。
この傾向は本多日生にも通じている。
即ち「日蓮聖人が今ここに凛然として忠孝の道義を掲げて、仏徒に警告する所以のものは、一は以て我が国不朽の道徳を宣揚し、一は以て釈尊教化の正統を発揮せんとするなり。
断じて軽々に看過すべからず。
忠孝を以て我が国民道徳の精華と為すは、教育勅語の明教厳として存するあり」(『開目鈔詳解』)と説くのがそれである。
この田中、本多らによる教育勅語観は、日蓮宗団にもさまざまに投影していた。
とくに大正一二年(一九二三)関東大震災による社会不安増大のもとで出された「国民精神作興に関する詔書」への反応と重なった形でより明確になる。
清水龍山が本多日生と草した「国民精神作興詔書と日蓮教徒の覚悟」にもそれが示されている。
詔書の精神と立正安国の精神とが共に国体の本義を説くものだというのである。
これにはその前年(大正一一年)天皇から「大師号」が宣下されたという現実が深く関わっていたことも否定できない。
それから九年後、日蓮聖人六五〇遠忌に日蓮門下に「勅額」が降賜されるという歴史のなかで教育勅語の精神、それを受けた国民精神作興詔書の精神に沿った布教活動が教団ぐるみのものとなり、戦争体制への協力姿勢がいちだんと強まっていった。
《中濃教篤「田申智学」『近代日蓮教団の思想家』、田中智学『勅教玄義』、『国史大辞典』四巻「教育勅語」の項》