奥の院の弁
奥の院の弁
おくのいんのべん
繰り弁の一つ。
文永一一年(一二七四)五月一七日、身延の地に着いた日蓮聖人は、一ヵ月後の六月一七日に身延山に入られた。
北は身延山、南は鷹取山、西は七面山、東は天子山の峨々たる深山に囲まれた中に草庵を結んだ。
「此処は人倫(ひとざと)を離れたる山中也。
東西南北を去りて里もなし。
かかるいと心細き幽窟なれども、教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し」(定一八八四頁)、「昼は終日に一乗妙典の御法を論談し、夜は竟夜要文誦持の声のみす」(同一九一五頁)。
かかる身延での生活のなかで、聖人は亡き父母を恋う恩愛の涙を流し「今一度父母の墓をもみんとおもへども、錦をきて故郷へはかへれという事は内外のおきてなり(略)父母の墓を見よかしとふかくおもふゆえに、いまに本国へはいたらねども、さすがこひしくて、吹く風、立つ雲までも東のかたと申せば庵をいでて身にふれ、庭に立ちて見るなり」(同一一五五-六頁)、と故郷の両親を追憶している。
また時には、少しでも高い所に登ったならば、故郷の山河は見えずとも、立つ雲は見えるであろうと、一丁登り二丁登りつつ、身延山五〇丁の頂に立ち、遙かに父母の墓のある故郷房州の空を伏し拝んだ。
ここが「思親閣」奥ノ院で、聖人の孝養心を今日に伝えている。
以上の事柄を哀切を極めて、講談調で語りつつ、信者に孝養心を説いた。