革新・保守両派の抗争
革新・保守両派の抗争
かくしん・ほしゅりょうはのこうそう
明治二一年(一八八八)八月、一宗会議としての諮問総会に管長三村日修(身延山久遠寺住職)提出の宗門改革案身延山中心体制策及びその議案と同時に建議された合末論を巡って、改革派と保守派に分かれて起った対立抗争をいう。
改革派とは三村管長の提案を支持し、特にその一三ヵ条に亘る議案中、管長は総本山(身延山久遠寺)の受持ちとする(第一条)、宗務院を身延山におく(第六条)の二条を更に強化する策として、従来の各本山と末寺の本末関係を撤廃して、宗門全寺院を悉く身延山に帰属させ、信仰の確立、行政学事の一本化をはかり新時代に臨むという合末論(建議者佐野前励、本間海解)を掲げて、扶宗同盟会、転本会、同志会を結成し、後に明治二二年には為宗会を組織したもので、身延山中心体制・合末支持派である。
保守派とは三村管長提出案中、第一、第六の二条に反対する京都本圀寺、池上本門寺、中山法華経寺等本山を中心とするグループで、合末論に激しく反発して本山同盟会を組織してこれに対抗したものをいう。
この抗争は明治維新(一八六八)後、廃仏毀釈の大難を経て、政府の教団に対する管長職及び宗制寺法の設置等行政的措置による統轄に従って、新時代に臨む宗門新生の気風が高まったことにより、新時代の宗門改革論を巡って起きたものであり、宗門を二分して争うという大事件であった。
しかし一旦成立した三村管長の改革案も本山側の激しい反対にあって、認可申請が遅れ、漸く申請はしたものの、政府は情勢を見てか認可を下さなかった。
その抗争に明け暮れることが一宗の行政学事に大きな影響を及ぼす問題となり、遂に三村管長は明治二三年辞任、翌年五月一七日渦中に在って遷化し、管長は小林日董(京都妙顕寺住職)に代った。
明治二五年一月、漸く両派の和解によってこの抗争は終結したが、和解の条件として「管長は総大五山以下四十四箇本山現住職中より投票公選とし、任期は三年とす」の条文が成立し、改革派の主張は成らなかった。