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阿波法華

あわぼっけ #5137

阿波法華

あわぼっけ

阿波(徳島県)主・三好彦次郎長治が、領内をことごとく日蓮宗に改宗したので、これを阿波法華という。
三好長治は三好実休の子で、三好一族の十河・海部の両氏及びその臣の多くが心院日珖に受法しており、長治は真言・禅宗の盛んであった阿波国において「天正三年には阿波一国の衆、生れ子まで日蓮宗になし、法華経をいだかせ、他宗の寺へ出入することを許されず」(『三好別記』)というほどの強力な態度をもって「阿波法華」を実現させようとした。 それによって同の各宗僧侶が騒ぎ宗論が行われることになった。 『己行記』によれば、日珖は天正三年(一五七五)九月二八日、長治のもとに至り、浄土宗宗論して勝ち、そして翌月八日堺に帰り、翌日妙国寺において阿波宗論の始末を高座で披露し、いよいよ折伏の法鼓をならした。
なお一説には、この宗論真言宗との争いで、この時、日蓮宗真言宗側の質問に答弁出来ず、を逃がれ、長治はそのために護衛の兵を出して送り届けたという。 のちに長治が細川直元との阿波荒田野の戦いで阿波別宮浦(板野郡松茂町長原)にて自害するが、これは長治が日蓮宗を信ずる余り他宗を弾圧したことによって罰を被ったのであると風聞され、阿波法華の形成は同地における有力な外護と伝道者の後継を得ぬままに挫折せざるを得なくなってしまった。 この説は、かくて旧地を回復した真言宗側が自宗へ有利に作りあげたもので信憑に欠ける。
なお『三好記』(中)には「堺より妙寺、経王寺の上人下国して当国本行寺にあり、高野山より碩学の上人下国し、根来より博学の上人下着して当国持明院にあり。已に宗論に及ぶ所を、篠原入道自遁扱いをなし、天正三年に国中、右の宗旨になし返して双方共に上人は皆我に帰寺す」と記している。 「右の宗になし返す」というのは、長治の強制的な改宗をそのままにしたのか、あるいはもう一旧宗であるに戻したのか、意味は明確でないが『己行記』の確実な史料によれば、長治の命令のごとく日蓮宗になし返したものとみるべきであろう。

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