身延山山林払下げの件
身延山山林払下げの件
みのぶさんさんりんはらいさげのけん
身延山久遠寺寺有林は、山梨県南西部に位し「鰍沢森林計画区」に包括される身延町の内、身延川の水源地域で、標高三〇〇メートルより一一四八メートルの思親閣の東西約三キロメートル、南北約三キロメートル、七三三・八二ヘクタールと、身延町飛地七面山全域、標高約一七〇○メートルより標高一九八二メートルの九五・四三ヘクタール・及び早川町高住(こうじゆう)に介在する栃原山の約五〇〇メートルより標高一二三八メートルの七八・二九ヘクタールからなり、総面積九〇七・四四ヘクタールである。
なお一ヘクタールは一町歩と読替えてもその面積に大差はない。
この山林は聖人が波木井実長の寄進を受けて以来、徳川時代には御朱印地となり、寺有林として自由に経営して来たが、明治三年(一八七〇)一二月の布告により、境内地約四ヘクタールを残し、他は総て官有林に上地編入されてしまった。
以後久遠寺は自家用材にも不便し、信徒の苗木寄進植裁の途も杜絶した、殊に搬出に便利の地点は公売されて次第に風致を損傷する結果となった。
時の法主七四世日鑑は先代日薩並びに末寺、信徒代表等と協力して明治一六年九月、元境内復旧願を政府に差出した。
藤村県令は大の排仏家として有名だが大いに同情して特に、上地官林境内へ組入之義に付伺、そして寔に理解ある長文の伺書(教報『みのぶ』昭和二六年三月号一九頁―)を上司に提出したが功を奏せず却下された。
明治二二年官有林は御料林に転換された。
更に強力に運動の結果、二四年四月八日付にて、御料林は身延山委託林として経営出来る様になった。
なおまた大正三年(一九一四)四月には四ヘクタールの境内地は約七五ヘクタールに拡張され、残余の御料林は払下げの許可があり、遂に大正八年十一月二九日に払下代金一五万円余の納付を完了して、ここに身延山門末永年熱望の所有権を回復した。
かくて大正一〇年に迎えた宗祖降誕七〇〇年記念慶讃式典に当っては、この山林復古を祝する諸事業が行われた。
即ち山林関係丹精者の追悼法要、波木井公銅像の建立、また身延山の機関誌として発行されていた『天鼓』の大正一〇年第七号を「山林復古記念号」として刊行した。
また山林経営上の諸文献も多く出版された。