法服着不着論
法服着不着論
ほうふくちゃくふちゃくろん
埴谷妙宣寺の開堂供養の際に着用の七条袈裟と法服をめぐって、真間日満に組みした身延門流と中山門との間に行われた法論をいう。
この背景には身延門流の関東進出がある。
即ち第七世日叡(一三五二-一四〇〇)のとき、両山(比企谷妙本寺・池上本門寺)の第四世日山の滅後、自ら比企谷に晋み三山一主の制の確立を成した。
しかし両山の大衆は心からこれに服したわけでなく、不満をいだいたようであるが、日叡の学徳に心服し両山の有力な檀那であった狩野氏(叡持)の積極的な働きかけによって門流を別にする三山一主の異例な統合がなされるに至ったものの如くである。
更に真間弘法寺を身延門流の中山門流への進出の拠点としようとした点もうかがえる。
つまり埴谷重継(法号日継)の外護によって建立され、明徳元年(一三九〇)妙宣寺として開堂供養を行うこととなった。
中山第四世日尊を導師として、法要は重継の希望により七条袈裟と法服を着し、法会の行列は貫主には御供一〇騎、その供にそれぞれ一騎ずつ供をつけ、合わせて二〇騎が供奉してつとめることとなった。
真間にも招待があったので、自門流の形成確立の意識に燃えていた日満はこの法会こそ、真間門流の威儀を示す好機と考え、同じ仕度にて出仕せんとした。
しかし貫首と肩を並べることに一抹の危倶の念があったか、出仕しなかった。
かくして日満は自力では如何ともしがたいことを覚り、身延山を頼り中山の支配から離脱せんと計った。
そこで日満は身延日叡に七条法服の是非について問うたところ、それは謗法衣との返事であった。
これを拠所に日満は中山に対して反旗を翻えしたのである。
日叡は両山を掌中に収め、盛んに門家の拡張を試みていたときであり、日満が中山を離れようとする意図に乗じてこれを支配下に入れ、中山門流への進出の拠点とせんとしたのである。
しかし日叡の七条法服を謗法衣とする論拠はあまりにもとぼしく、結局、身延の中山進出のもくろみは崩れ去る。
この法服事件における身延の敗退は身延の意気をそぎ、両山の日叡への不信をもたらせ、かくして応永六年(一三九九)日叡隠退し、翌七年日億身延に入山するや、両山は身延に請うて法弟延命院日行を両山に迎え、身延・両山は旧制の如く各山一主となったのである。
《『日蓮教団全史』上》