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本隆寺(京都府京都市)

ほんりゅうじ #3524

本隆寺(京都府京都市)

ほんりゅうじ

法華宗真門流の総本山で恵光山と号す。
京都市上京区にあり、長享二年(一四八八)に妙顕寺の僧であった日真が、義上の争論のためにここを離れ、同志と共に一寺を建立したのに始まる。
そのの寺地は四条大宮で慧光山本妙興隆寺と号し、本隆寺の名はその略称である。
これ以来、日真を派祖と仰ぐ、いわゆる日真門流の総本山として今日に及んでいる。
日真の後、日鎮・日諦・日修と次第して法灯を継承すると共に、布教に積極的な姿勢で臨み、京都二十一ヵ本山の一つとして勢力を誇った。
ところが文法華の乱によって灰燼に帰した本隆寺は、他の諸寺と共に堺に移った。
やがて帰洛の勅許が出ると大宮と千本の中間あたりに復帰し、更に堀川西・一条北に再建した。
その後、正一一年(一五八三)、豊臣秀吉が聚楽第を建てるに及んで現在の地に移転した。
承応二年(一六五三)に京都御所が焼失した際に類焼し、明暦三年(一六五七)に再建している。
今日の伽藍はこののもので、三二四年の星霜を経ている。
寛永一〇年(一六三三)の「寺院末寺帳」では、本隆寺は独立本山として位置づけられ「京都本隆寺之帳」一冊が作成されている。
本隆寺を総本山とする団が宗名を公布したのは明治になってからのことで「本妙興隆寺」の「本妙」が「本妙法華宗」という宗号に用いられたこともあった。
明治初期の「社寺取調類纂」によると、本隆寺は日蓮法華宗勝劣派の本山として記載されている。
現在は法華宗(真門流)の宗務庁を始め「法華宗真門学林」「宗学研究所」がここに置かれ、名実ともに宗門の中枢寺院となっている。
本隆寺は俗に「焼けずの寺」とよばれている。
明八年(一七八八)正月三〇日の夜、宮川町から出火して洛中ほとんどが類焼したが、本隆寺の本堂祖師堂、宝庫の三棟が類焼を免がれたことから、この名称がある。
寺宝としては日蓮聖人大曼荼羅目授与)を始め、日真の著作など貴重なものが多く襲蔵されている。
《『日蓮辞典』「本隆寺」の項》

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