妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日静(本国寺・妙龍院)

にちじょう #3190

日静(本国寺・妙龍院)

にちじょう

(一二九八-一三六九)
妙龍院と号す。京都六条本寺四世(実質初世)。
所伝によれば父は上杉頼重、母は足利氏の女といい、永仁六年の生れで足利尊氏には叔父にあたるという。
初め中老日位のもとに投じ勉学したが、のち摩訶一日の弟子となった。
は比企谷に本勝寺をたてたが日朗一周忌の元亨元年(一三二一)一〇月、比企谷より分立し越後本成寺に帰ったが程なく両寺を日静に譲り嘉暦三年(一三二八)一二月二〇日入寂した。
建武四年(一三三七)のころ日の門下宰相公日祐上洛弘通し日静をまねいて共に門を興さんとはかった。
日静は請に応じて上洛し足利氏の外護のもとに六条堀川に本寺(現本圀寺)をたて尊氏との深縁により公武の帰依を受け勢を大いに伸張させた。
本圀寺文書、本圀寺年譜には当の綸旨、宣、尊氏・直義ら代々の御書、奉書其他所蔵の記録類がのせられていて盛儀をもの語っている。
しかるに近来これらに載せられている現存する古文書類を調査した結果、上代に関する古文書類が悉く疑わしいものであることが判明したため、従来信ぜられていた尊氏並びに公武関係も信頼しがたいと考えられ本圀寺上代については暗黒視されるに至った。
しかし、単に文書類の不備をもって日静並びに本圀寺上代の情勢を判断するのは妥当でない。
日静は応安二年(一三六九)六月、七二歳をもって入滅したが、これより一二年後、永徳元年(一三八一)六月二三日、玄妙日什は関白二条師嗣に謁し宗義を献白したが、このとき師嗣は「洛中に妙顕寺、本寺等の法華宗これあり、未だ此義を聞かず」(『日穆記』)といっており、既に本国寺は当時京都日蓮宗の根本道場にして頭領であった妙顕寺と肩を並べる大寺で、公卿の上層部にまでよく知られている寺であったことが知られる。
更にこれより一七年後の応永五年(一三九八)日什の門人日仁・日実が将軍義持に諫暁したとき地方奉行治部太郎左衛門入道は「洛中を見候に禅宗についで法華宗繁昌と見え候、其故は六条本国寺とて候」(『日運記』)と本国寺の名をあげ、次に去る嘉慶元年(一三八七)叡山僧徒によって破却され明徳四年(一三九三)将軍義満より八町の地を賜わり妙本寺と改め着々復興しつつある妙本寺の名をあげている。
これらは本寺が日静在世の当既に十分に伸張していたことを示すものである。
寺の所伝によれば延文元年(一三五六)尊氏・義詮が本御影堂建立に木材を寄進、同二年尊氏は天下静謐の祈祷、三年には尊氏の病気平癒の祈祷を修せしめていることが見えるが、これについては妙顕寺にも同様に祈祷していることが妙顕寺所蔵の文書に見える。
寺諸記録、文書類は天文五年(一五三六)の天文法難によって焼失したので法難後旧蔵の文書類を模造したものであろう。
従って同寺上代の文書が疑わしくとも、これを無価値とすべきものでない。
また尊氏・上杉との関係が譜に明確でないからといって捨てるべきでない。
このことは出家者について多くの系譜が不明確であるのと類を同じくするものである。
寺が日静のころすでに妙顕寺と比肩する存在であったことは傍証によって類推することができ、その長足の大をなした所以は足利氏一族が有力な武、公卿と深縁を有したからであろう。
寺は建立の当初から六条堀川にあって他の諸寺の如く移転することなく現代に及んだが昭和五二年(宗務院・承認)山科に地を求めて移転することとなった。
日静には日伝・日陣・日叡があり、日伝は本寺を、日陣は越後本成寺をつぎ、日叡は鎌倉に妙法寺を創した。
《『日本仏教人名辞典』「日静」の項、『国史大辞典』一一巻「日静」の項、宮崎英修『日蓮宗徒群像』》

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