与同罪【教学】
与同罪【教学】
よどうざい
たとえ積極的に謗法を犯さなくても謗法を呵責しなければ同じ罪に陥るということ。
元来は鎌倉時代の主犯に連座して、主犯と同じ罪に処せられるという武家法上の刑名に原拠し、共犯罪にあたる。
反逆者の事情を知りながら、見て見ぬふりをし、上(かみ)(主君)へ訴えもせず、かえってこれをいたわり、力を貸す者の罪をいい、反逆者と同罪に扱われる。
このことから日蓮聖人は仏教信仰においても謗法者を呵責しなければ謗法者と同一の罪科になると示される。
『南条兵衛七郎殿御書』(定三二一頁)では、いかに法華経の信心が厚くても、法華経のかたきを責めなければ得道はできないと述べ、また『秋元御書』には「日蓮此大なる失を兼て見し故に、与同罪の失を脱れんが為め、仏の呵責を思ふ故に、(略)国主竝に一切衆生に告げ知らしめし也」(定一七三五頁)と述べられ、聖人の折伏逆化の弘教姿勢の根底には、この罪の意識が強く働いている。
つまり聖人の罪意識は悪をもって自己と関係のないものとして見るのではなく、自己もその責任の一分を負うのであり、真の滅罪は不共業(ふぐうごう)の罪のみならず、共業(ぐうごう)による罪を滅すべきであるとする。
なぜなら他と区別されるべき不共業は他との共通の業によって成立することを基盤としており、個は単なる個ではなく、全体を内に含む個であると見るからである。
このように聖人は自己の存在を孤立的なものとみるのではなく、社会・人類というような広い世界との関係においてとらえられている。
《執行海秀「日蓮聖人の業思想と罪意識」『日本仏教学会年報』二五号、『遺文辞典』歴史篇「与同罪」の項、『日蓮辞典』「与同罪」の項》