日現(侍従阿闍梨)
日現(侍従阿闍梨)
にちげん
(一四五九-一五一四)
侍従阿闍梨と号す。
長禄三年尾張に生まる。鷲津本興寺五世日暹の弟子となる。生来英明にしてよく学解に達し本成寺八世を継ぐ。
在職する事一六ヵ年、その間京都本隆寺二世日鎮(三世日唱との説有り)と法水一味通用盟約を企ったが機熟せず不成功に終わったが日覚・日映における通用盟約の礎をなした。
本山退院後、尾張、三河、遠江を巡教し各地で「本迹同異決」等の日陣の御重抄を中心に講義をし、門下学徒の興学に努めた。
後に三河長福寺に隠居し、玉沢妙法華寺の日伝と本迹義に関して論争を展開した。
日伝は当時日昭門流の学匠で『本迹高広義』をもって勝劣派を難じたので、日現は『本迹高広義会釈』四巻を著しそれに答えた。
また永正九年(一五一二)芝長応寺日恩の請により『五人所破抄斥』一巻を著して興門の二箇相承を破し、『本迹同異決私聞書』二巻を著し、弟子日勝のためには『内証伝法記抄』一巻を著し、他に『御答見聞記』一巻を著している。
日現は日陣の寂後、最初に陣門教学の興隆に力を注いだ人で、日覚・日求・日相らと共に陣門の四哲と称される学匠である。
また本成寺中興の基礎を固め、九世日覚とならび後世現覚時代と称される本成寺隆昌の一時期の先鞭をなした。
日現の主張する処は日陣のそれを受け、受量正意論を継承し、神力品中心、八品正意に対しては、神力品は付属の場であり顕説の場ではないとし、寿量における妙法が事の一念三千であるとした。
また本迹については宗玄義の上に勝劣があれば当然体玄義において勝劣を論ずべきで、法体において本迹の浅深を論じた。
しかし本迹相対し開顕された処の教は一部本門となるため一部修行の立場をとった。
猶陣門においては日陣より日現までの著述を「御重称」と称し、日覚より以後のものを「秘書」として区別している。
また日現は絵画にも秀で、好んで仏像を画き、殊に宗祖の御影に秀れたものがあった。
永正一一年七月一日、五六歳にて遷化。