妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日延(可観院)

にちえん #2617

日延(可観院)

にちえん

(一五八九-一六六五)
可観院と号した。小湊誕生寺第一八世。
朝鮮李王宣祖の長男臨海君の子である。
文禄の役(一五九二)で加藤清正は朝鮮王子臨海君・順和君の二王子を捕えたが、和によって送還し、代りに臨海君の男女二人の子を日本に連れた。
その男子が後の日延で、当四歳、女子は後の宇喜多の重臣戸川逵安の室で、六歳であった。清正は殊に心を加えて養育した。
日延は博多法性寺一三世日教について薙髪し、一六歳で京都本国寺求法檀林に笈学。居ること三年、更に飯高に学び、二六歳で加藤清正らの力によって小湊誕生寺一八世を継いだ。
小湊では祖師堂建立、竜潜寺、覚林寺、円真寺等を建立したが、寺領の問題で煩が多かったようである。
寛永七年(一六三〇)身池対論の結果、日延は対論に欠席したけれども、池上日樹らの不受僧六人と共に追放の数に加わっている。
ち欠席の日延に対しても身延側は処罰を申請し、幕府は取上げなかったが、日延は自ら進んで追放の列に連なり、伊勢国一柳監物直盛の預りとなったが、名目のみで、日延は間もなく筑前博多の法性寺に赴いた。
同寺は彼が朝鮮から来日直後に受法した寺であり、また姉の戸川氏の室のいる地でもあった。
まもなく配所の秋月本証寺に入ったが、主として法性寺で蟄居生活を送ったようである。
その後、更に黒田藩主らの帰依を得て博多に香正寺を創し、大いに線を張った。
また晩年、故山朝鮮の見える場所を選び、黒田公より土地を賜わって、万治三年(一六六〇)海福山妙安寺を創立し、寛文五年一月二六日、ここに寂した。
寿七七歳。
日延は不受不施義の領袖として重きをなしたが、その義は宗祖以来の制法としてのそれであり、日奥的伝をもって任じた人々の義との間には距離があり、善学院日高は、日延の受不寺居住、談義、受施等で『日延謗法書』を発表して非難しているが、必ずしも正鵠を得ていない。
日延の著に謗法書への反論『善学院再答、浄土宗問答記録』等がある。
《高崎慈郎「可観院日延の研究」『大崎学報』一一七号》

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