妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日孟(秀典)

にちもう #2558

日孟(秀典)

にちもう

(一五六二-一六三〇)
中川を氏とし諱は日孟、字は秀典と号す。若狭(福井県)の生まれである。
出家の志断ちがたく二七歳にして妻子と離別し、京都妙顕寺第一〇世日堯(一五四三-一六〇四)の門を敲いた。
爾来、蔵院日生の洛北松ヶ崎檀林に天台の教観を学び、飯高檀林(下総)の講筵に侍し、ついで隠棲中の立本寺日純を慕い京都山科に来った。
日孟の所持するところは持経一部、麻の衣、紙の寝衣にすぎなかったが、在世より三伝来の大衣、僧伽梨があった。
『草山集』によればこの衣は日孟より日須、日雄、日梵、元政と伝えられたの至宝であり、日孟の観念、誦経にあっては常に座右に置かれた。
のち山科を出て摂津(大阪)熊野田に庵を結び座禅、誦経に努める頃、若狭の日雄が訪ね来り、病を得て日孟は日雄に後をまかせ恩師日堯隠棲の華光寺に身を寄せた。山科草庵はのち秀典寺と号し現在に至る。
寛永七年七月二日、享年六九歳、法臘四三年にして日梵らの門弟に看取られ、誦経唱題のうち安らかに遷化した。
法師は相手のに応じて巧みに法を説くの才があり、在俗の頃、若狭に馬利耶蘇なる切支丹宣教師が訪れ、しきりに布教した。
泉南の日珖が破折に来ったが、それに及ばずとして農夫の姿に身を変えて聴衆に混じり、宣師が本来不浄の人間が死んでのち清浄のに生れると説くのを矛盾として、麦の種が麦に育つように人には本来、清浄の仏性があってこそに成ると論破した。
のち京都妙顕寺第一四世日豊はこの切支丹破折を絶賛した。
師はまた能書をもって名高く、同郷の若州小浜、妙旨道人に従い書を学んだ。
伝によれば妙旨はその名のとおり一度は仏門にあった書家で、日孟は彼と師弟の交りを結び、妙旨口伝の書法で法華経一部を書写し、秀典本としてのちに刊行された。
高弟日梵はのち京都華光寺主となり後光明帝より律師位を賜り、延宝四年(一六七六)六月に示寂したが遺言により、遺体を渕底に沈め、出家以前鮮魚を食べたを償ったといわれ、日孟の遺風を伝えて余りあるものがある。
《宮崎英修『日蓮宗の人びと』、『日本仏人名辞典』「日孟」の項》

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