節分追儺式
節分追儺式
せつぶんついなしき
立春の前日の節分に「節分追儺式」とか「節分会」「追儺会」といって法要を行うが、もとは節分と追儺式とは別のものである。
立春・立夏・立秋・立冬など節季の前日を節分とよぶが、今日では立春の前日をさすようになっている。
古来、東洋の暦では立春をもって正月としていた。立春が正月の〈節〉なので立春を含む朔望の朔(ついたち)を元旦とするのである。
そこで節分を年越ともいって年占いや厄払いの行事を行っていた。
邪鬼の侵入を防ぐために柊(ひいらぎ)やとべらを戸口にさし、悪臭をだすものを火であぶったりする風習がそれである。
迫儺は(ついな)「鬼やらい」・「なやらい」・「駆儺(くだし)」ともいわれ、儺(だ)は難と同じで、難は〈つつしむ〉意味をもつことから駆疫の意味ともなって儺をつかうようになった。
中国において紀元前三世紀頃から時節の替り目に儺を行う風習があったらしく、あまりに盛んになったために悪鬼を追いはらうだけでなく祖霊をもおびやかすことのないようにと孔子は朝服して廟に立ったという(『礼記』『論語』郷党篇)。
時代によって日取りは一定していなかったが北斉、唐時代などでは歳末に行われた。
わが国では嵯峨天皇以前から行われていたらしく掃部寮式に「十二月晦日夜、追儺」とある。
延喜式部によれば宮中で行われていた追儺は大晦日の夜の戌刻(八時)からはじまり、陰陽師の追儺祭文を読み終ったあと方相氏が儺声を発して手にしている戈(ほこ)で楯を三度打つ、これに呼応して親王以下公卿たちが桃弓と葦矢で射り桃杖で疫鬼を駆逐するのである。
豆を打って邪鬼を追うのは室町時代になって始まった。
豆打ちは鬼の目はじき、鬼の目刺しなどとともに邪鬼を追いはらう一つの手段であった。
これは民間で行われてきた風俗が武家や公家にとり入れられたものである。
現在節分追儺式といって節分に豆打ちをし、ところによっては鬼に扮した者を追いまわす行事は節分と追儺式とを併せて行っているのであろう。
「豆まき」というときは、駆逐の意味ではなく作物の豊穣を祈念する予祝行事で、その豆を拾うのを「草取り」といっていることと、また、その豆を一二粒焼いて、その焼け具合で月々の天候を占う豆占いをしていることからも知られる。
《『岩波仏教辞典』「節分」「追儺」の項、『国史大辞典』八巻「節分」の項》