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節分追儺式

せつぶんついなしき #4411

節分追儺式

せつぶんついなしき

立春の前日の節分に「節分追儺式」とか「節分会」「追儺会」といって法要を行うが、もとは節分と追式とは別のものである。
立春・立夏・立秋・立冬など節季の前日を節分とよぶが、今日では立春の前日をさすようになっている。
古来、東洋の暦では立春をもって正月としていた。立春が正月の〈節〉なので立春を含む朔望の朔(ついたち)を元旦とするのである。
そこで節分を年越ともいって年占いや厄払いの行を行っていた。
邪鬼の侵入を防ぐために柊(ひいらぎ)やとべらを戸口にさし、臭をだすものを火であぶったりする風習がそれである。
は(ついな)「鬼やらい」・「なやらい」・「駆(くだし)」ともいわれ、(だ)は難と同じで、難は〈つつしむ〉意味をもつことから駆疫の意味ともなってをつかうようになった。
において紀元前三世紀頃から時節の替り目に儺を行う風習があったらしく、あまりに盛んになったために悪鬼を追いはらうだけでなく祖霊をもおびやかすことのないようにと孔子は朝服して廟に立ったという(『礼記』『論語』郷党篇)。
代によって日取りは一定していなかったが北斉、唐代などでは歳末に行われた。
わがでは嵯峨天皇以前から行われていたらしく掃部寮式に「十二月晦日夜、追」とある。
延喜式部によれば宮中で行われていた追は大晦日の夜の戌刻(八時)からはじまり、陰陽師の追祭文を読み終ったあと方相氏が声を発して手にしている戈(ほこ)で楯を三打つ、これに呼応して親王以下公卿たちが桃弓と葦矢で射り桃杖で疫鬼を駆逐するのである。
豆を打って邪鬼を追うのは室町代になって始まった。
豆打ちは鬼の目はじき、鬼の目刺しなどとともに邪鬼を追いはらう一つの手段であった。
これは民で行われてきた風俗が武や公にとり入れられたものである。
現在節分追儺式といって節分に豆打ちをし、ところによっては鬼に扮した者を追いまわす行は節分と追式とを併せて行っているのであろう。
「豆まき」というときは、駆逐の意味ではなく作物の豊穣を祈念する予祝行で、その豆を拾うのを「草取り」といっていることと、また、その豆を一二粒焼いて、その焼け具合で月々の候を占う豆占いをしていることからも知られる。
《『岩波教辞典』「節分」「追」の項、『史大辞典』八巻「節分」の項》

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