立本寺(京都府京都市)
立本寺(京都府京都市)
りゅうほんじ
京都二十一箇本山の一つ。
京都市上京区に所在。
具足山と号す。
京都の開教として有名な日像を開基に、妙顕寺四世の日霽を開山と仰ぎ、応永三四年(一四二七)頃に成立した。
立本寺の創立については京都日蓮宗の置かれた深刻な状況がある。
応永年間(一三九四-一四二七)の後半のころ、比叡山の圧迫と寺内の抗争によって、妙顕寺は妙本寺と寺号を改め、日霽の後を継いだ月明の時に丹波国(京都府)知見へ移った。
この時、納所として京都に留った妙光房という僧が、有力商人の柳酒屋と小袖屋経意の経済的な援助を受けて、妙顕寺の旧地たる四条櫛笥に一寺を再興し、本応寺と号した。
月明はこの寺に弟子の具円を住まわせたが、妙顕寺との間がこじれて、やがて本応寺を去った。
妙顕寺はその建立のいきさつから本応寺の返還を迫ったが、衆徒はこれを受け入れず、比叡山の末寺としての形をとり、公家の裏辻家から日実を迎えて住持とし、寺号の本応寺を改めて立本寺とした。
この後、京都日蓮宗の繁栄と共に立本寺も盛んとなり、貴賎を問わず参詣者が多かった。
公家の名門として名高い近衛政家とその子尚通は、立本寺に詣でて訓経を聴聞している。
特に尚通は立本寺日禘のために斡旋し、立本寺を勅願所に日禘を権僧正に任ずるために奔走した。
これは尚経の徒兄弟に当る九条政忠の子が立本寺の僧であったことによる。
立本寺はこのように公家社会とも接近し、大いに栄えたが、天文法華乱で灰燼に帰した。
後、豊臣秀吉の命によって洛東今出川に寺地を得て堂宇を再興したが、寛文元年(一六六一)にはまたもや焼失した。
これを復興したのが説法の名手として名を馳せた霊鷲院日審である。
立本寺には松永久秀の家臣が伝えたといわれる冑の御影と称する日蓮聖人の木像が伝わっている。
《宮崎英修「九条尚経の外護」『続・日蓮宗の人びと』》