日聰(大周院)
日聰(大周院)
にっそう
(-一四三三)
大周院と号す。
京都本国寺第五世大円律師日伝に師事した。
日伝が応永一六年(一四〇九)に六八歳で示寂したあと、一意院日経が一五歳で第六世となったが、在位三年で応永一八年に寂した。
世に児(ちご)貫首といわれる日経は公卿出身であり、本国寺の寺門経営の政略的側面がうかがわれる。
日経寂後、その俗縁の兄日厳が第七世を継いだが、門徒の中にはこれを不足に思うものがあり、日伝の弟子の日聰こそが師跡を継ぐべき人であると説いて、叡山修学中の日聰が呼びよせられ本国寺第八世となった。
在位四年にして日厳は職を追われ、別に一寺を建立して分立した。これを木下門徒という。
さて『本化別頭仏祖統紀』は第八世日聰・九世妙勝院日暁・一一世大聖院日堯以下一四世蓮光院日助に至るまで、みな花山院の猶子となっていることを伝える。
当時の諸大寺の貫首に名家出身が多いこと、また本国寺の公武接近の実情から、このことは事実と思われる。
日聰・日暁・日堯が花山院の猶子となったのは花山院忠定(一四一六薨)・その子持忠(一五三〇薨)の頃からであり、持忠の子政長も父祖以来の法華信仰に厚かった。
また日聰は当時の教団状況である各門流の上奏諌暁運動などの活発化にかんがみ、諫暁に雄志を展開している(『門徒古事』)。
日聰は在位二〇年後、日暁に遺付して永享五年正月二九日、寂した。
また足利義量が征夷大将軍となった時、日聰は「命を稟け、立像百座祈祷を修し」て大僧都となっている(『本化別頭仏祖統紀』)。
なお第九世を継いだ日暁は円台坊日肝の弟子であり、この日肝は日伝の命に違背したとして、日伝の弟子三七人は同志して日暁を本国寺貫首から追い、一時、日暁は樋口の猪熊に別立したが、日肝の弟子であることを止める起請文を入れて還住したと、日親は『伝燈鈔』に記し、更に「本国寺が祈願寺たる悪名」を慨嘆している。
《『日蓮教団全史』、『日本仏教人名辞典』「日聡」の項》