きのしたもんと
京都六条本圀寺七世(実質は四世)日厳が寺衆に追われ、在位四年にして別に一寺を建立分立した。
このグループを木下門徒と呼ぶ。
即ち『伝燈抄』などによれば、本圀寺の開創者日静が、その資建立日伝に譲り、その日伝が応永一六年(一四〇九)に遷化したため、公家出身の一意院日経が一五歳で本圀寺の稚児貫首となったが、在位三年で応永一八年遷化した。
その後、日経の後をその俗兄日厳が継いだが、寺衆の中に、本成寺日陣と本迹法体同異論で論難応酬中の日伝の資学匠大周日聡を推すものが多く、従って日厳は心ならずも出寺した。
《『日蓮教団全史』上》