日統(要行院)
日統(要行院)
にっとう
(-一五七九)
字は要行、要行院と号す。
関東下総飯高檀林の前身である飯塚談所の開祖。
下総飯塚に生れ、同所光福寺第六世要行院日泰の弟子となり、出家。
年少の頃より学問に志し、元亀年間(一五七〇-七二)、師日泰のもとを辞して比叡山に学ぶ。
叡山勉学中の後輩に教蔵院日生・蓮成院日尊がいる。
その後、堺におもむき、仏心院日珖・正覚院日航らと日蓮聖人遺文を校合し、弘経寺日健の『御書抄』の取捨料簡、注解を加えて永禄九年(一五六六)に『御書抄』(いわゆる『統抄』)五巻を作成。
のち故郷の下総飯塚に帰り、天正元年(一五七三)飯塚光福寺に学室を構えて学徒を集めた。
これを飯塚談所という。
日統の開講を聞いた叡山勉学時代の後輩、教蔵院日生は洛北松ケ崎に学室を開いていたが、天正五年三〇余人の学徒を率いて日統をたすけた。このとき日統の門下にのちの京都妙顕寺一〇世顕彰院日堯、同一一世龍華院日紹、のちの身延久遠寺一九世法雲院日道、のちの中村檀林開祖慧雲院日円らがいた。
しかし天正七年三月七日、病のため後事を日生に托して遷化した。
日生はあとを受けて講じたが、大衆は年少の日生が談所の主導をとることに反発したため、飯高城主平山刑部、妙福寺住侶日因の招きにより飯高に移り、妙福寺に学室を構えて学徒を教育した。
これをのちに飯高檀林といい、日統開講の飯塚談所をその前身とする。
著書に『御書抄』のほか『五大部講談』『薬王品講談』がある。