妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日純(恵眼院)

にちじゅん #2891

日純(恵眼院)

にちじゅん

(一四八二-一五五〇)
恵眼院または東眼院と号す。
池上・比企両山九世。幼両山八世日調の門に入り、一〇歳で池上大の主となり、二〇歳まで仙波の板鼻和などで台を学んだ。
『当門徒継図次第』に日調が秩父松山の豪族上田入道の親類を付弟に定めたとあるので、あるいは上田氏の出身かもしれない。
師範日調が元亀元年(一五〇一)に遷化したので、二〇歳の若さで両山の猊座にのぼった。
入山ののちも宇都宮、築瀬、足立、河辺などで学問を続け、池上に好学の士を招いて外典を学し、また足利学校で学び、東井で鍛錬するなど精進を重ね、高貴の出身によくある我儘勝手のふうはまったくみられなかった。
両山の興隆にも尽力し、戦乱世の関東で名のある武将山内上杉顕定、谷上杉朝良、今川殿、北条氏綱、氏康などとも親交している。
大永四年(一五二四)の秋に上洛した。
これは京都の日蓮宗が叡山衆徒の圧迫を受け、同八月には将軍足利義晴によって洛中追放の憂目をみているので、これらの件と関わりのある上洛であったと考えられる。
伝説によると池上に近い蒲田に、豪勇の名をはせた月村宗観という者がいた。文一八年(一五四九)に没し、その葬儀の導師を日純が務めたが、奇異があり式中に雷鳴と共に鬼神が現れ、死者の片腕を奪って中に逃げた。
日純が祈念をこらし、鬼を責めると、その念力にかなわぬとして腕を返してよこした。
日純はこの自分の不徳の致すところと深く感じて、両山の主職を辞し、山内の常宣院に退隠したと伝えられる。
しかし蒲田の月村にいまも残る三宝像の像底銘には、天正三年(一五七五)に月村宗観がこの像を自身の逆修供養のために造立したことが記されており、どうも代的にこの伝説と合致しない。
文一九年三月二一日、六九歳で遷化した。
《『当門徒継図次第』、『現師書置』、『本化別頭仏祖統紀』、石川存静『池上本門寺史管見』、宮崎英修『日蓮宗徒群像』、『日本仏人名辞典』「日純」の項

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