妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日秀(瑞龍院)

にっしゅう #2880

日秀(瑞龍院)

にっしゅう

(一五三三-一六二五)
豊臣秀吉の姉で、俗名をとも(智子)という。
文二年尾張の中村に生れた。
成人して長尾弥助(後の三好吉房法日海)を養子に迎え秀次、秀勝、秀保の三人をもうけた。
「とも」は秀吉の姉の故をもつて知己交際の場も広く究竟日禛、寂照日乾らの化を受け、本寺には天正一八年(一五九〇)安土御殿の一部を移し、桁行一六間三尺五寸、梁行一三間二尺五寸の大客殿を、そのほか庫裡、勅使門、釣鐘及び鐘楼堂、一切経蔵の再興、大黒堂尊像の彩色等種々の功徳をつんだ。
また文禄二年(一五九三)一二月二八日、身延山一八世妙雲院日賢代に大方丈並びに一一間に一三間の唐門を建てたが、この由来は「瑞龍院殿、岐阜宰相殿高麗国に於て御他界追善寄附に擬す」という。
また一一半、四方椽各九尺の本堂を寄進したが文政七年(一八二四)火災のためいずれも焼失した。
寺は明八年(一七八八=これを明の大火と称し京都の街半分位焼く)の大火の折に一部を残し焼失した。
前記の岐阜宰相とは朝鮮に戦没した秀勝で、正二〇年九月九日戦死、二七歳であった。
下の弟を大和中納言秀保といい(秀俊というは誤り)、文禄四年四月一六日一七歳で療養病死した。
一番上が秀次である。
摂政関白の職にあったが好臣の讒訴に立腹した秀吉は同年七月一五日高野山において自害を命じた。
母の心中誠に無惨、日頃尊敬せる究竟日禛のもとに得度して「妙恵日秀」と改め、初め洛西嵯峨の地に秀次の冥福を祈り庵を設けたが湿地老躰に適せず、ために後陽成皇より、洛中に「村雲」と称する土地一画と寺号を賜わった。
これが瑞龍寺の初めである。
慶長五年(一六〇〇)求法檀林三世本妙日鋭を開山に迎えて「妙恵山善正寺」を建て、更に翌六年二月二四日六八歳の自己壽像開眼を日鋭に依頼、秀次像と共に霊屋式厨子に納め安置した。
この秀次七回忌であった。
慶長一七年八月夫君吉房入道寂し本寺一音院に葬る。
元和元年(一六一五)九州玉名浜海中出現の釈迦像を得て深く喜び正寺へ奉納し、深草元政がその縁起を記述している。
日秀は寛永二年四月二四日寂寿九二歳。
《『瑞龍寺歴譜』、『正寺誌』、宮崎英修『日蓮宗の人びと』、『日本仏人名辞典』「日秀尼」の項》

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