妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日本山妙法寺

にほんざんみょうほうじ #2756

日本山妙法寺

にほんざんみょうほうじ

山主藤井日達(行勝)が、大正六年(一九一七)二月、皇居二重橋前で、うちわ太鼓を打ちながら、国主諫暁、大法奏進の修行をなし、日蓮宗から独立する方向に進んだことに始まる。
同年一〇月、藤井は大陸開のため「満州」に単独で渡り、翌大正七年一〇月、遼陽(りようよう)に最初の日本山妙法寺道場を開創した。
その後「満州」各地や華北の在住日本人の信者をつくり、中各地に道場が建てられた。
ちなみに日本山とは、藤井が若い頃に学んだ千葉の日本寺に由来したものという。
大正一二年九月、ハルピンで布教中、関東大震災の報告を受けた藤井は急拠帰国し、いらい昭和五年(一九三〇)まで国内で布教活動を続けた。
その、大正一三年四月、静岡県吉原に日本最初の道場を創立した。
昭和五年九月に藤井は再び日本をあとにし中、シンガポールを経て、翌年インドに渡る。
これが藤井のいう「西」である。
インドでは昭和八年ワラダでガンジーと会見、その非暴力、無抵抗主義に共鳴、戦後における日本山妙法寺の平和運動の基調である非暴力主義は、ガンジー主義の影響によるといわれるようになった。
だが藤井自身は「予が無抵抗主義を主張し、非武装不戦を主張するに至ったのはガンジー翁に会見したからではない。
広島、長崎に原爆が投下され、人類歴史未曽有の悲劇をうけたるを見た」が故であると語っている(『西日誌』)。
第二次世界大戦後は阿蘇、熊本花岡、熱海、清澄などに次々と仏舎利塔を建立すると共に原水爆禁止、外軍基地反対などの平和運動に一山を挙げて活躍していることは有名。
南方系の黄色い衣を着けた妙法寺の僧尼の姿は、日本の平和運動ばかりでなく、昭和五一年にアメリカで行われた米大陸横断平和行進の先頭にも見られた。
藤井は九〇歳でなおスリランカ、アメリカ、フランスなど世界各に唱題の行脚を続けた。
《藤井日達『日本山』、同『毒鼓』、同『わが非暴力』、中濃教篤『天皇制国家と植民地伝道、西山茂『近現代の法華運動と在家教団』(春秋社『シリーズ日蓮』四)、小野文珖『昭和法華人列伝』、『日本仏人名辞典』「藤井日達」の項

【補記】
上記は昭和五六年版『日蓮宗典』掲載の内容である。藤井日達は昭和六〇年(一九八五)に遷化した。

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