日明(持誠院)
日明(持誠院)
にちみょう
(一六一三-八四)
持誠院と号す。野呂檀林の能化を勤め、小湊誕生寺の第二一世を継ぐ。
悲田不受不施派の中心人物の一人。
身池対論から三〇数年を経た寛文五年(一六六五)幕府は全国の社寺に対して、寺領はことごとく国主の供養であるという意味の受領手形を提出するように命じた。
時に日明を初め碑文谷法華寺日禅・谷中感応寺日純らは寺領を慈悲による供養、悲田供養として拝受する旨の手形を提出した。
これを後に悲田派と呼ぶが、悲田派に寄せる世間の非難は手厳しいものがあり、例えば当時の落首に日明の指弾したものとして、
「日明ガオクビョウ神ノ書物ハ手形ガタガタ足モガタガタ。小湊ノアルジヲシラバ人デナシ面ハ人デ犬也トゾ知ル(ケンヤは日明の所化名)」というのがある。
かように日明等の悲田派は安国院日講が、「彼ノ徒ハ二途不摂ノ蝙蝠、敵ニシテモ味方ニシテモ曾テ取所ナキ妖僧ナリ」という如く、その中間的存在は受派・不受派の両方から攻撃されるところとなり、加えて信者の参詣も途絶えてしまった。
寛文九年の夏、こうした状態に手を焼いた日明らは内談をとげ、不受派の同情者として知られた広島藩主浅野光晟夫人、自昌院を仲介として不受派との和睦を計るべく「時節ヲ以テ先年捧ゲ候一礼ヲ公儀ヨリ申受クル訴訟ヲ致スベシ。其上流聖衆御赦免ノ才覚随分肝煎申スベキ(略)其上龍土屋敷ノ仏前ニ於テ今マデノ罪障ヲ改悔懺悔致スベキ由」と夫人へ申し入れた。
ここに夫人はその願を入れ日明らは龍土の番神へ参詣し、事相の改悔を勤め一応和睦したものの、数日にしてこの申し入れを握り潰してしまった。
以後、日明ら悲田派は不受派の寺に対して盛んに働きかけ、その傘下に組み込むべく狂奔するようになる。
しかしこうしたことが結局は、元禄四年(一六九一)に悲田派の禁止となって現れ、僅か三〇年に満たずして歴史からその姿を消した。
日明が入寂したのはそれより七年前、貞享元年六月二二日、七二歳であった。
《『国史大辞典』一一巻「日明」の項》