日教(本是院)
日教(本是院)
にっきょう
(一四二八-八九-)
出雲(島根県)の生まれで初め本是院と称し日叶と号した。
出雲の馬来大坊安養寺にあって修学したが、長じて上洛、住本寺に負笈し更に研鑽を加えたが、当時の日尊門家の行為にあきたらぬものがあり、住本寺を去って大石寺に赴き、日有の門に入った。
文明一三、四年(一四八一、二)のころ、顕応房、左京阿闍梨日教と改めた。
『百五十箇条』を著し、宗祖本仏論を主張し、不造、不読を主張したというが、『百五十箇条』の第一八条には、今時は戦乱の時であるから仏像を安置せぬと興師の仰せにある。
今、富士の義は脱益の導師なる故に造るべからずというが、これは興師の義には無いといい、更に興師は広宣流布の時は本尊形儀皆造るべしと書せり、といって必ずしも不造を主張したわけではなかったが、のち造仏、一部読誦は正義に非ずとし、また『穆作抄』では、末法の導師日蓮聖人は釈迦多宝を脇士となすといって宗祖本仏論を主張、『類聚翰集私』には日蓮聖人の付属をうけた大石寺の貫首は次々に付嘱をうけた人であるから「当代の法主の所に本尊の体有るべき也「と貫首本仏論をといている。
さて富士門流の二箇相承の最古の記録は日教の諸書を初見とする。
而してこの相承は現行のものに概ね合致するものと、反対の標目のものと二種類が記されている。
即ち文明一二年(一四八〇)五三歳の時の『百五十箇条』には『身延相承』は「日蓮一期弘法(略)可守此状 弘安五年壬午九月十三日「とあり、『池上相承』には「釈尊五十年(略)可為非法衆 弘安五年壬午十月十三日」とあって現行のものと同じである。
但し身延相承の方には九月一三日の日付、「時を待つべき耳」と「甲斐国波木井郷山中に於て之を図す」という現行本にない語が入っている。
また文明一六年五七歳の時の『穆作抄』も概ね同じようである。
しかるに長享二年(一四八八)六一歳の『類聚翰集私』の『身延相承』は「釈尊五十年」とあり、現行の『池上相承』の相承文が弘安五年九月一三日付で「血脈次第日蓮日興 甲斐国波木井郷山中図之」とあり、「日蓮一期弘法」が一〇月一三日付で池上相承となっていて現行のものと反対になっている。
また翌延徳元年(一四八九)大石寺一二世日鎮の命をうけて註したと自記する『六人立義破立抄私記』も『類聚翰集私』と同じく現行本と反対の二箇相承が記されている。
これらを案ずると二箇相承は日教のころに富士門流で作られ、どちらを身延相承とするのか池上相承とするのか決っていなかったことが知られる。
日教は文明一五年のころ大石寺を出て日向に赴き『穆作抄』を著し、長享・延徳のころまた大石寺に帰ったが門徒と不和となり重須に移ったと伝えるがその後は未詳。