日弘(了心院)
日弘(了心院)
にちぐ
(一五八二-一六四九)
了心院と称す。
平賀本土寺一七世(除歴)、初め相模国三浦の大明寺日慈について出家し、のち比企・池上両山一六世日樹に私淑して不受不施義を主唱、元和九年(一六二三)一〇月三〇日に日樹と師資の契約を結んだ。
この当時の関東における不受不施派は、日樹を中心として大きな勢力をもち、中村檀林日充、小西檀林日領・中山法華経寺日賢、碑文谷法華寺日進などが受派の身延山側を天台学の観心論を論点に積極的に攻撃する態度を示していた。やがてこの論争は教学上の問題から逸脱して、幕府の政治権力が介在、身延と池上両山の派閥論争へと進展していった。
寛永七年(一六三〇)二月二一日、幕府は身延・池上双方を江戸城に召喚し、両者を対論させ、それを裁決することになった(身池対論)。
その結果、池上側の不受不施主唱者は敗論とされ、六聖即ち日樹、日賢、日弘、日領、日進、日充は宿坊である芝二本榎朗惺寺に閉居を命ぜられ、同四月二日にそれぞれ流罪に処せられたのである。
日弘は伊豆国戸田村に遠流となり、同地の蓮華寺境域に小庵を建てて住した。
平賀本土寺在住七年で流罪になったと伝えられるから、逆算して平賀入山は寛永三年ということになる。
謫地に在ること一九年間、慶安二年八月七日にこの地で六八歳の生涯をおえた。その間の寛永年中に戸田村に平賀本土寺の末寺である本土山長谷寺を開創しているから、流地における弘教活動で多くの信仰者を得たに違いない。
また常随給仕の弟子に江戸谷中本光寺中興・戸田長谷寺三世了雄院日恵や妙応院日休らがあった。
不受不施派では寛永法難六聖の一人として崇敬する。
《『本化別頭仏祖統紀』、『不受不施人名事典』、『本土寺過去帳』宮崎英修『不受不施派の源流と展開』》