妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

日代(蔵人阿闍梨)

にちだい #2429

日代(蔵人阿闍梨)

にちだい

(一二九四-ー三九四)
静岡県富士、河合郷に永仁二年に生まれ、白蓮阿闍梨日興の外戚の甥にして伊予房、伊予阿闍梨、蔵人阿闍梨と号す。
大輔阿闍梨日、大進阿闍梨日助は俗縁の弟・甥である。幼にして日興の門に入り、同学をしのぎ英才を称せられている。
一八歳にして日興より御本尊を付与され、日興が晩年新六人を撰定したは、筆頭にその名があげられている。
大石寺持仏堂本尊等を授与され、日興より多くの置状を受けるに至っている(一説には八通)。
日興滅後北山本門寺を付属され、師子座法灯を継承す。
同寺在山中建武元年(一三三四)一月七日、大石寺上蓮房において重須日代と岐日仙との間に方便品読・不読の問答があり、世に仙代問答という。
これは日興滅後、本迹問題等の同門の立場を鮮明にして置かなれければならなかった事が問題とされる一事例の問答にして、ことに鎌倉方や目等の学に対して生じた問答であろう。
この問答の結果日代は長老日仙と若僧日代との人情面より見ても諸々に不利な立場を負うとなり、重須離山の遠因となっている。
この問答は日仙は迹門無得道の故に方便品不読の立場をとり、日代は与・奪・破の三釈があり、与釈の立場で一応得益を許すも、真の得益は内証の寿量品にあり、高(日蓮聖人)開(日興)両祖の如く、方便品を読むべき立場をとっている。
仙代問答については日満、日睿、日尊の記録があるが、所見は異なっている。
しかしながら日仙は目の阿流、日代は本迹迷乱鎌倉与同であるといわれたが、与奪二釈の破釈の立場を新たに強調した面が後の富士学の骨旨となるきっかけを作った問答といえよう。
これよりさき重須の地頭石川氏・日妙とのに不和を生じ、これに方便品読不論が加わってついに日代は重須を追われ西山大内・由比氏の外護を得て、西山に重須同様の富士山本門寺を建立している。
今の西山本門寺である。
後応永元年四月一八日一〇一歳(または九八歳)にて示寂。
《『遺文辞典』歴史篇「日代」の項、『日興門流上代典』「日代(伊与公・蔵人阿闍梨)」の項》

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