門流和融運動
門流和融運動
もんりゅうわゆううんどう
各門流が分立伸張し、互いに自門を正嫡的伝として誇り、一宗内の争いで他宗の嘲笑を買う(『伝燈抄』)如き弊風刷新のため、康正―寛正(一四五五-六五)頃を中心に真如院日住・月蔵坊日祝らの先覚者によって推進された。
また、これに先立つ六-七〇年前、日叡は身延・池上・比企谷三山一主の制を作り、両門流を統合して法理を通用させた。
さて日住の諫暁(一四六五)を妬んだ叡山大衆からの法華宗諸寺破却の通達は、宗内の一味談合をもたらし、翌寛正七年(一四六六)二月一六日、日蓮聖人誕生の佳日を卜して諸門会同・一味和合の寛正の盟約(京都諸山代表列名)を成立させた。
宗門行軌として異論のない折伏主義・不受不施義・誘取弟子檀那の制禁を表に出し、教学的論点としての本迹問題には深く立ち入らずに和合したことは賢明だが、問題をも残した。
更に日住の教えを受けた身延日朝は各派諸山の秘伝口訣を集め公開し、講じて教学面より門流の和融を促進し、中山門流日祝との間で両山の和融を計った。