身延無間論
身延無間論
みのぶむげんろん
身延山久遠寺住僧と対立する人々が久遠寺を無間地獄に堕ちる寺と誹謗したこと。
早く日興は、波木井実長に三項におよぶ謗法があるとし、実長および久遠寺学頭の日向を非難し、正応元年(一二八八)一〇月「日興一人、本師の正義を存じて本懐を遂げ奉る」(『原殿御返事』)として身延を去った。
更に近世初頭、国主供施の受・不受をめぐって、寂照院日乾(一五六〇-一六三五)、心性院日遠(一五七三-一六四二)とするどく対立した不受義を主張する仏性院日奥(一五六五-一六三〇)は、近年身延参詣の人々の少なくなったのは、日乾・日遠が身延山久遠寺の住持となって邪義を起し、法水を濁したから霊山変じて無間山になったとする。
更に日奥の弟子長遠院日樹も、寛永七年(一六三〇)二月二一日の身池対論において、受不施義の身延方を難じて身延無間論を主張している。
また天台学中心の近世檀林教学の中で、中村檀林では了義院日達以降、宗学尊重を説くあまり、悪口罵詈の幣風が現れ、一部ではその拠点である身延無間、日乾・日遠無間説にまで進展した。