玉造檀林・玉作檀林
玉造檀林・玉作檀林
たまつくりだんりん
寛永一四年(一六三七)長遠院日遵によって下総玉造蓮華寺(千葉県香取市に所在)に開設された。
日遵は飯高檀林七世を経た屈指の学匠である長遠院日樹の弟子であり、身池対論後における不受不施派活動の中心的人物である。
当時の香取は不受不施派の拠点となった地域であり、日遵は松崎檀林一三世(推定)化主を経た後、玉造檀林を開設しており、不受不施派の中核体として組織され、同派の教線拡大のために学徒養成を行ったと思われる。
日遵の後、長真院日栄、東恩院日惣、揚善院日逗、明静院日浣が歴代化主となったが、寛文年間を頂点とする不受不施派弾圧のため、衰退を余儀なくされた。
松崎檀林においては、日遵が化主を退いた後、間もなく弾圧のため無住期を迎え、玉造檀林では寛文六年(一六六六)五月二八日、第五世化主日浣が肥後、相良遠江守頼喬のもとへ配流となっているため、この時期に檀林活動は事実上破却したと考えられる。
学制については、関東系檀林の多くが能化の下に玄能・板頭・三老・四老・五老・中座頭の職を定めていたことより、玉造檀林もこれに準じていたと見られる。
板頭職は檀林庶務、中座頭職は雑役指引を受持ち、これを除いた上座五名が講述を行っていた。
講述内容を「読物次第」と称して名目・四教義・集解・観心・直談・文句・止観・御書の八階級制を設け、各々の部に「勤席」と称する一定の修学単位制をとって各部卒業条件としていた。
開校期間を「夏」と称し、春秋二期制が通常であった。
第一夏は二月より六月に至る一二〇余日であり、三〇余日の「夏間」の後、八月より一一月に至る一一〇余日を第二夏としていた。
講述日は各部により異り、隔日ないし七日に一度のため、勤席満了には各部とも最短で二年余の修了日数を要したと考えられる。