波木井殿御報(四三三)
波木井殿御報(四三三)
はきいどのごほう
一篇。
弘安五年九月一九日付の書状。
波木井殿というのは南部実長のことで、実長は南部御牧(なんぶみまき)の波木井郷に住したので地名によって波木井と称した。
弘安五年(一二八二)の秋も深まり身延山の寒気もようやく加わってくると、人々は病気療養中の聖人にはこの冬は耐えがたいものになるのであろうと案じ、転地療養されんことをすすめ、聖人もこれを聞入れ九月八日身延をたたれた。
実長の子息や二〇歳前後にもなった血気盛んな孫たちと朗党たちが警護について一八日池上に着かれた。
身延山からほど近い伊豆の熱海方面は北条一門の領地が多くて騒がしく、警護の心労も並大抵でなかろうと考え、実長の二男実氏の所領常陸国隠井(茨城県)には温泉があるのでここを療治のところときめ身延を出発、予定ではしばらく休息して常陸におもむかれるつもりであったが、病態はかばかしからず池上においてしばし病を養われることとなる。
この御報は、聖人が池上に着いて池上氏の心からなる迎えをうけ、身延の地にあって旅路を案じているであろう実長に池上安着したことを報じ、孫の公達が一行の前後をまもり、日々止宿の手配警護につき、ここまで無事に旅をすませたことを謝し、身延在山九ヵ年にわたる外護に対し深く感謝されている。
とくに晩年の身を養われた芳情に対し「いづくにて死候とも墓をば身延沢にせさせ」たいと申しやられている。
この聖人の意志を別書『波木井殿御書』の文と謬解をするものが間々あるが注意をうながしておきたい。
また実長よりおくられた栗毛の馬は、常陸までの遠い旅を思いやって上総国藻原(千葉県)斎藤兼綱のもとにあずけたいと申し送っておられる。
馬にまで温情をかけらえている聖人の、この配慮は読む者の心に惻々としてせまるものがある。
本書の奥に「所らうのあひだ、はんぎやうをくはへず候こと恐れ入り候」とある。
これは病中の旅のあげくで疲労が甚しく、代筆させたが証判である自署花押を加えられなかったことをことわられた文言である。
身延山一二世円教日意は身延所蔵の聖人真蹟目録をのこしているが、これに「右筆日興也」と註している。
即ち本書は聖人の口述を日興が右筆となって書きしたためたが聖人は気色がすぐれなかったので自署花押を加えられなかったのである。
聖人はこののち常陸におもむくことができず、ここ池上を入寂の地と定め、同月二五日諸方から参集した門下に最後の談義として『立正安国論』を講じ、翌一〇月八日本弟子六人を定め、一三日入寂される。
なお常陸の湯については、これを下野の塩原といい、あるいは磐城のさばく等と諸説があるが、聖人が常陸の湯といわれているように常陸隠井の湯である。
《『遺文辞典』歴史篇「波木井殿御報」の項》