妙傳寺聖典個人版 新・電子聖典

月明(京都妙顕寺)

がつみょう #3287

月明(京都妙顕寺)

がつみょう

(一三八六-一四四〇)
京都妙顕寺第五世。 太政大臣三条実冬の四男と伝える。 幼名富若丸。
妙顕寺第四世日霽の門に入り、応永一〇年(一四〇三)受
同一二年一一月、師の臨終に際して遺蹟を譲られた。 に月明二〇歳。
その後、法眼、権大僧都と進み、二八歳で僧正に昇進した。
妙顕寺(明徳四年=一三九三=妙本寺と改む)入山といい、破格の昇進といい、その出身門地の高きによる異例のことと考えられる。
寺伝によれば、月明は名誉・権勢に強い執着を持った人のようで、宗義の研鑽よりも紳晋のに多く出入し、かつ摂受的色彩の濃い前代にしたがい、謗施を受けたり、浪人を養ったり、化儀上の非儀も多く、将軍義持より本宗の法理について問尋された時鎮護国家の法であると答えるなど、化法においても根本宗義の理解が不十分で、謗施の不受と不惜身命諫暁を宗是とした当時の宗門では、門流の内外より強い論難が浴びせられた。
なお月明の将軍への答申は後の日隆門流分立の一因となっている。
また月明の僧正昇任は、日蓮宗を配下と考えていた叡山の大衆を強く刺激し、応永二〇年六月、山徒は再び妙本寺を破却、堂塔を破壊し、諸堂、地所を他に分与し、朝廷に迫って僧正の官位を召し上げた。
月明は丹波の知見に避難して門下を指導し、妙本寺の再興を計ったが、京都の僧俗は月明を「遠離於塔寺色読の上人」と敬仰した。
応永二三年、旧地四条に妙本寺を再興し、俗弟具円を付弟としてこれに赴かせたが、具円に反対する人々との間に軋轢を生じ、門下の分立離反等の諸件があった。 しかしこれも月明の帰洛によって収まった。
勝劣義に対しては月明は譲らず、同年、日隆が本応寺を建てて勝劣義を鼓吹した、千如房忠賢を遣わして論難三昼夜、これを帰伏せしめている。
日隆は後日、重ねて勝劣義を立てて遂に分立した。
月明は永享一二年遷化。 世寿五五歳。
著書に『護利生論』がある。
《宮崎英修『続・日蓮宗の人びと』、『日本仏人名辞典』「月明」の項》

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