日高(善学院)
日高(善学院)
にちこう
(一六〇一-六七以降)
善学院と号す。
幼くして出家し、やや長じて妙覚寺日奥のもとに投じ勉学したといわれる。
寛永七年(一六三〇)二月、身池対論の結果、京都妙覚寺は身延支配となり、日高は出寺して法義を堅持した。
時に三〇歳、その後慶安三年(一六五〇)浅野家の庇護を得、備後国三次に妙栄寺を創建した。
万治元年(一六五八)七月、日高は博多に遊化したが、ここには先に身池対論で追放になった小湊誕生寺一六世可観院日延が香正寺を創立し、不受流人僧としてその徳行をうたわれ北九州僧俗の崇敬を集めていた。
ところで日高は同地において日延の日常の行状を見聞して受不施に同ずる謗法行為であるとし、また同地において日延と対立し非難している勝立寺日陽と同心し、概ね五ヵ条の条目を立てて日延に難問し同時にこれを諸寺に回文した。
日延は放置していたが、宗内の動揺を見、万治四年『日延返答抄』といわれる一書を製して答えこれもまた回文した。
日高は寛文元年(一六六一)『香正寺問答』を作ってこれを反駁、更に同七年前書を補訂追加して再論した。
なお日延はこの再論の二年前、寛文五年正月二六日、七七歳をもって入寂している。
日高のこうした態度はかえって人々から指弾攻撃されたので、このころ若年ながら頭角を現し始めた蓮華院日題に近づき日延攻撃の援助を求めた。
日題は寛文七年『日延謗法目前抄』もって日高をたすけたが、これを見た安国院日講は日題の非礼を怒り『破邪立正抄』を著して日高・日題を破し日延を弁護した。
当時の不受不施派の指導者たちは日高・日題をもって頑愚・非器・偏屈の徒と難じ斥けている。
日高は少なくとも寛文七年、六七歳まで生存しているようであるが、その寂年は明らかではない。
《宮崎英修「不受不施派の動向」『近世法華教団の展開』》