日運(通玄院)
日運(通玄院)
にちうん
(-一六六三)
字を三益、通玄院という。
千葉松崎檀林(顕実寺)七世、並びに中村檀林の化主となり妙興寺一七世、小湊誕生寺二〇世を継承する。
当時は身池対論(寛永七年二月二一日)直後の動静で一段と受不受の対立が激しくなってきたころである。
身延(受派)側では智見院日暹、通心院日境、妙心院日奠の三代にわたり、不受側では小湊誕生寺日遵らが対立の中心となっていた。
日運について見ると身池対論以前、寛永六年(一六二九)三月に池上長遠院日樹(-一六三一)が岡山蓮昌寺に送った書状の追書に「三益(日運)」の名が見られ、早くも身池対論の中心人物の日樹と関連があったことを知ることができる。
また受不施派の幕府へ提出された書状を見ると、寛文前後の不受派の中心的存在に日運が含まれている。
明暦三年(一六五七)七月一二日に提出した「口上」に、先代日遵の後継者に日運が晋山したこと等が述べられ、万治元年(一六五八)に日運より提出された陳状等、また身延側より、明暦、万治頃「不受派寺庵覚書」が出されているが、その中に「林夙(日恵力)・下総平賀本土寺、貞山(日誠)・房州小湊誕生寺、三益(日運)・武州碑文谷法華寺」と名前を連ねているし、また別に出された覚書をみると、下総平賀本土寺、安房小湊誕生寺、武州碑文谷法華寺、の三者を特に「不受不施再興の張本人」と示していることからも、日運の不受義は前の日遵にもまして強烈な運動をしていたことが知れる。
また日運は示寂一年前に「末寺僧愁訴状」を提出して不受義に生涯をかけた一人であることが理解できる。
寛文三年四月二五日寿六〇歳寂であった。
《宮崎英修『禁制不受不施派の研究』、同『不受不施派の源流と展開』、『本化別頭仏祖統紀』、『日蓮宗年表』》