日進(智勇院)
日進(智勇院)
にっしん
(一七六一-一八二一)
字は智勇、智勇院と号す。
鷹ケ峰檀林文講二五八世、中村檀林玄講主。
文化一〇年(一八一三)熊本本妙寺二二世、同一四年退山、京都本山頂妙寺三四世、文政四年(一八二一)遷化、寿六一歳。
生国・俗姓等不詳。
一妙院日導の教学に対して批判的立場をとったことで知られる。
当時の教学界は、天明五年(一七八五)日導が『祖書綱要』二三巻を著し宗学の振興に努め、これによって自然本覚的観心主義の傾向が大きい日導教学に対する是非両論が活発に交されるようになった。
ことに日進は日導、その資不染院日亮と続いた本妙寺主の地位を継承して晋山したものの、後住問題で日導門下と疎隔を生じ、かねて日導教学に批判的であったため、ここに日導の教学に痛烈な反論をなすにいたった。
本妙寺退山後、頂妙寺在職中と考えられる時期に『宗門得意抄』二巻を著して日導の義を批判した。
この日進の説に反論する意見が発表され、これを日進が再批判する等論戦が展開され、日進は都合三編の論著を世に送り、ついで文政三年(一八二〇)これらを綜合して新たに『摧破綱要取要篇』一巻を発表して日導の教学思想に対する駁論のまとめとした。
即ち、日進は日導教学の流行によって当時の教界が寺家在俗ともに唱題読誦を軽視し、代って祖書の会読輪講に重きをおいていると難じ、日導の観心偏重と経文軽視の学風を批難した。
この日進の学説について執行海秀はその著『日蓮宗教学史』において「ややもすれば綱要の義を誣ふる点もないではない。
然し綱要教学に対する学的批判としては一考の余地があって、後世、綱要を評する者、日進の批判に耳を傾ける者が尠くないのである」(三一一頁)と評価しているが、日進の日導教学批判に感情的対立感があることも暗に諷している。
日進の跡を継承して本妙寺二三世となった本来院日法は、本妙寺財政再建の方途を示した『仕方立之覚』において、その財政逼迫の原因を前住―日進―の放漫経営にあるかのごとくのべているが、日導門下と日進の感情的対立の深さを示唆して興味があり、日進の日導に対する意識を考える上に参考になろう。