日澄寺(千葉県鴨川市)
日澄寺(千葉県鴨川市)
にっちょうじ
千葉県鴨川市天津に所在。
宗門史跡。
明星山と号す。
天津の領主・工藤家の菩提寺。
文永元年(一二六四)一一月一一日、日蓮聖人が小松原法難のとき殉教した天津城主・工藤吉隆(妙隆院日玉)の城跡として、昭和四七年(一九七三)六月一二日付で宗門史跡第二号に指定された。
天津の領主・工藤家は初め郷内の真言宗の寺(寺の名は伝わっていない)を菩提寺としていたが建長の頃、左近丞吉隆が鎌倉で日蓮聖人の教えにふれ、弟子となった。
弘長元年(一二六一)、日蓮聖人が伊豆法難のときも、聖人への給仕を怠らず、翌年二年、『四恩抄』をおくられた。
文永元年(一二六四)日蓮聖人が故郷の安房小湊へ帰ったとき東条で地頭の東条景信に襲われた。
吉隆は天津でこの急変の報を聞き、はせ参じて戦ったが鏡忍房と共に殉死した。聖人は吉隆に対し僧の礼をとって妙隆院日玉と号をおくった。
翌年、聖人は吉隆の父・民部少輔行光の招きにより、工藤家の菩提寺である天津の真言宗の寺を訪れた。このとき聖人の弟子・本乗房日澄は寺主と法論した。日澄は鋭く宗義を論じ、ついに寺主を破折したので、聖人はこの寺を日澄に授けた。日澄は日蓮聖人を開山とし、小松原法難で殉教した妙隆院日玉を第二世とし、自らは第三世となって法脈を定めた。
なお日澄はのち日朗に師礼をとり九老僧の一人となった。この大乗阿闇梨日澄がこれである。
殉教した吉隆は生前にその妻が懐妊したとき、聖人に約束して、もし男子が生れたら必ず聖人のそばに給仕させたいといっていた。吉隆が殉教したあと男子が生れた。父の遺命に従って聖人の門に入り、刑部阿闍梨日隆と号した。
日隆はのちに父の捨身殉教の地に寺を建立し、鏡忍房を開山に、父の妙隆院日玉を第二世とし、自ら第三世となり、二人の名をとって妙隆山鏡忍寺とした。
さらに日隆は吉隆の居城であり館であったところを寺に改め、父の菩提のため工藤家の菩提寺を移して、ここを日澄寺としたのが、今日の日澄寺の始まりという。
《『日蓮聖人事蹟事典』(雄山閣)「千葉」の項》