日潤(一雨院・身延久遠寺)
日潤(一雨院・身延久遠寺)
にちにん
(一七五九-一八三八)
身延山第六〇世の法主で、一雨院と号し霅川と称した。
宝暦九年に尾張国(愛知県)に生まれ、苦学の後、飯高檀林の第二五五世の能化となった。
後に京都の満願寺に住職し、更に尾張の日比津に移り、定徳寺に隠栖した。
天保五年(一八三四)一一月身延山からの請待があり、翌六年二月二六日に入山した。
ただちに小方丈の再建にとりかかり、九間に一一間の造営を翌七年に完了した。
また日環の代に再建された大方丈を造作し、唐門玄関等の再建に努めた。
更に大方丈から位牌堂に通ずる廊下と、水鳴楼から厨司に通ずる廊下を造った。
『身延山歴代略譜』によると、この年は松平左京大夫頼学卿が参詣したことや、「方丈本陣同勢千八十人也」とも記されている。
翌年の七月一九日より、天拝の祖師像、及び本社七面宮の霊仏霊宝を、江戸深川の浄心寺において出開帳を行っている。
「日延共七十日間」とあるので、二ヵ月余の出開帳であった。
この頃は各寺の出開帳が江戸を中心として盛んに行われていたので、その影響によるものと考えられる。
また天保九年には大阪・中国・四国・九州の各方面に巡説を試み、二五ヵ寺に及んで妙伝寺の日祥を名代として勤めさせた。
漢詩文や和歌にも長じ、「水鳴楼」の記、外の作品を遺している。
天保九年閏四月七日に遷化された。寿八〇歳である。
時の院代は相寿院日誠(勅許権律師下谷宗延寺)であった。