日慶(仏性院)
日慶(仏性院)
にちけい
(一三九七-一四七八)
大成房、のちに仏性院と号す。
初め妙本寺日霽の会下にあって宗義を修めた。
日霽示寂後、月明による権勢への接近、摂受的傾向が一段と進むと、日存、日道、日隆らと共に妙本寺を退出した。
応永年間(一三九四-一四二七)綾小路五条の日像の旧跡である妙法蓮華寺に草庵を創し、弘法活動に努めた。
応永二〇年(一四一三)妙本寺が山徒によって破却されると、この難を遠離於塔寺の経文色読であると、日存、日道は月明に起請をささげ帰復した。
しかし日慶はこれに同調せず、妙本寺の再興に奔走していた柳酒屋も合流を勧めたが、法理各別と称して分立した。
応永三〇年頃、他の同志、門化と共に柳酒屋の外護で、四条綾小路に寺をたて、妙蓮寺と号した。
日慶は寺門の発展は「俗姓の高下に依て参内の遅速あり、今且く其姓を撰んで須らく寺務となすべし、略仏法の興廃は帝者の任なり通経の人あに此の用人なからんや」(妙蓮寺祖師記)と考え、単に行学徳行の師のみではなしがたいと決断し、庭田重有の子、日応(一四三三-一五〇八)を貫首に迎えて開基とした。
永享元年(一四二九)日隆は日慶に対し、妙蓮寺再興に尽力した日存、日道を歴祖に加えるよう提言した。
しかし日慶は、かつて日存、日道が月明に帰伏したこと、また自立、別行動ををとったこと等を不満として、こ申出を拒否した。以来五〇年間におよび両門の義絶状態を招くことになった。
文明五年(一四七三)日慶は寺内に道輪寺学室を設け、学頭に常住院日忠を抜擢して、教学の興隆と門下の教育にあたらせた。日応を招じて妙蓮寺繁栄の基をつくった日慶は、文明一〇年八二歳で示寂した。
日慶は妙蓮寺再興の当事者でありながら、終始表面にはたたず、老僧として、日応を後見し、妙蓮寺の再興に全色心を傾注した。
なお歴祖にも加わらず、常住院の開基にとどまった。
《日蓮教学研究所編『日蓮教団全史』上、赤松俊秀編『日本仏教史』中世篇、『日本仏教人名辞典』「日慶」の項》